「巨人を出ろ」と後押ししてくれた恩人に感謝 「満塁男」の別の顔は「併殺打男」・駒田徳広さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(35)
どうやったかというと、前で打って引っ張った。泳いでもいい。一塁ゴロでダブルプレーになったって、ショートゴロのゲッツーも一緒。一、二塁間のヒットになるのと、どっちが確率が高いか、それに気付いて併殺打が減り(97年に)もう一回3割を打った。それが王さん、荒川さんが言ってることを80%理解した瞬間だったんじゃないかな。それができていなければ、2千本はあり得なかった。 巨人ではレギュラーを取るまで時間がかかった。その間に入団が1年遅い吉村禎章は背番号55から7になり、槙原寛己も54から17になってローテーションで放れるエース格になった。僕だけがずっと50番台を付けていた。新聞とか読むと、コーチが「駒田と吉村を比べたら吉村の方が確率が違うから」と。そういうものって一生頭に残ってるわけですね。だから3割打つということは、すごく大切。ホームラン20本でも2割2分だったら、くびになってる。僕は88年に規定打席に達し、3割でした。前年は2割8分7厘。それぐらい自分の確率が上がっていると自信になっていた。3割打ってみて、そういう自分が成り立っている景色を感じられるようになったら、なんぼでも打てるんです。その究極が首位打者だと僕は思う。首位打者争いをしても取ったことない人は、その景色が見えてないから、やっぱり取る人ってすごい。
▽僕の性格を心配してくれたからこそ移籍を促した 巨人から出た時は流れがあってそうなったんです。巨人への感謝はいっぱいあるけども、これで現役が終わってしまうのはあかんと僕は思ってました。藤田元司監督には横浜へ行けって言ってもらった。(当時の横浜監督の)近藤昭仁さんが89~91年に巨人のヘッドコーチをしていたから「近藤のところへ行け」って。(中日から)落合博満さんが移籍して来るのは分かってたし、一塁のレギュラーポジションがなくなるのもある。藤田さんが一番心配してくれたのは僕の性格。「おまえは、このままいくとトレードなんだ。トレードはポシャる可能性がある。最後の最後でポシャって巨人に残った時、おまえの立ち位置はどこにある? 2軍でずっとくすぶってるのか。勇気と根性があるなら出ろ」と言われて「覚悟してます」と答えた。感謝ですよ。だから2千本打てたと思います。「頑張れよ、駒田」と思ってくれる方もいてくれたからこそ、巨人時代の1027安打から、あと900何本打てた。そこがすごく大きなモチベーションだった。タイトルを1個も取れたわけじゃないけど、いい経験をさせてもらったなと思いますし、胸を張れますよ。
× × × 駒田 徳広氏(こまだ・のりひろ)奈良・桜井商高(現奈良商高)からドラフト2位で1981年に巨人入団。通算13本の満塁本塁打を記録し「満塁男」と呼ばれた。94年から横浜(現DeNA)でプレー。名球会入り条件の2千安打は2000年9月に達成し、同年限りで引退した。通算2006安打。一塁手でゴールデングラブ賞10度。62年9月14日生まれの61歳。奈良県出身。