【書評】重い障害の将軍徳川家重と忠臣、その真実を隠密が見ていた:村木嵐著『まいまいつぶろ 御庭番耳目抄』
家重の言葉がわかる忠光を遠ざけよ、と主張する老中
忠光の出現で言葉を伝えられるようになった家重は、自分で人を差配できる将軍後継に変わった。将軍在位30年の吉宗は幕閣たちを集め、「次の将軍は家重だ」と宣言した。だが、吉宗の下で15年にわたり老中首座を務めた松平乗邑(のりさと)が反対した。 「家重の何が不足じゃ」と吉宗が言うと、乗邑は「それがしは忠光を信じておりませぬ。家重様が将軍となられますならば、忠光を遠ざけてくださいませ」と応えた。乗邑は、忠光が老中と将軍の間に立ち、将軍の命を老中に伝達する側用人(そばようにん)のような権力を持つのを恐れていたからだ。 吉宗から促されて家重は語り出す。「忠光を遠ざける、くらいなら、私は将軍を…」。ここまで伝えた忠光は突っ伏した。 乗邑は老中罷免となり、蟄居(ちっきょ)させられた。権勢を失った乗邑のもとにあの隠密が現れ、「大御所様(吉宗)が内々にお召しでございます」と江戸城に案内した。享保の改革を共に進め、今は第一線を退いた二人が語り合う。 乗邑は以前に浄円院から、家重を廃嫡せよと命じられていたことを明かした。吉宗は苦笑しながら、「母者(ははじゃ)は途中から考えを改めたようであったぞ」と告げた。そして、かつて家重を「汚いまいまいつぶろ」と言った乗邑に、吉宗は「まいまいがはった跡は尿のしずくではなく、汗や涙だと思わないか」と諭した。
「大岡家は紙一枚受け取れぬ」
忠光の家庭のことも明かされていく。実に潔癖な男だった。家重が将軍になって5年のことだが、大岡忠相が忠光の妻、志乃と息子を招き、語り始めた。 「忠光はただ一人、上様(家重)の御言葉を解す身だ。忠光の一存で政(まつりごと)はいかようにも歪むことになる。それゆえ皆がこの二十余年、来る日も来る日も忠光を疑うてな」 「上様ほど危うい道を歩まれた御方もない。そのご苦難をともに乗り越えたのが忠光であった」 志乃はその帰り道に知人と会い、その孫娘から手作りのお姫様の紙人形をもらった。明くる日に帰宅した忠光は、「大岡では紙一枚受け取れぬと申して、返してまいれ」と志乃に命じた。後日、忠光の母は志乃にこう話す。 「忠光は生涯、家重様の御身代わりを務めなければなりませぬ。そのためには、どこからも誰からも、どのような疑いの目を向けられてもならぬのです。忠光が法度に触れて御側を遠ざけられたら、家重様はどれほどお困りになられましょう」