《ブラジル記者コラム》恩赦委員会と資産凍結法廃止要請=終戦直後には犯罪だった皇室崇拝
独房90日で見違えるような白髪の老人に
『戦時下の日本移民の受難』(安良田済編著、2011年、以下『受難』と略)に引用された半田知雄日記には、こんな記述がある。戦争中、日本移民は「第五列」(スパイ)扱いされ、拘束・拷問も当たり前だった。 《1942年2月26日=第五列の嫌疑で捕まった人たちが、(留置場において)どんな生活をしているかは、多くの同胞が知りたがっていたことであったが、九十日も独房に入れられて、娑婆へ出て来たときには、見違えるような白髪の老人になった人……》(95頁) 警察において《調書を取るには、当局の者も拘留者も困った。「どうして捕まったのか」と、刑事が尋ねる。「自分は何も知らない。何もした覚えがない。貴方の方で知っているだろう」「いや、こちらでも判らない」》(95頁)というやりとりが頻繁に行われたという。 『受難』の中の半田知雄日記には、日本移民を犯罪者に仕立て上げようとする警察の手口の記述もある。 《五月二十三日、サンパウロ在住の日本人に、かなり大きなショックを与える事件が起きた。アラサツーバの奥で、一日本人がスパイの嫌疑で、警察の者から、蹴殺された事件である。犠牲者は、退役の伍長であった。もともと身に覚えがないことだったので、白状の仕様もなかった。警官から散ざん蹴飛ばされて、遂に内蔵出血を起こし、瀕死の状態になった。やり損ねたことを知った警官は、この不幸な旧伍長を、日本人の店先に連れて来て、放り出したまま逃げてしまった。(中略) もう一つは、アララクァラ線で、日本人親子が銃殺された事件。家宅捜査の際、或る日本人農家から現金2コントが発見された。これを違法だとして警官が持ち去ろうとしたのを拒んだ父親が、警察に抵抗したので銃殺された。これを目撃して狂気した息子が、今度は真剣に反抗的態度を示したので、もちろん直ちに銃殺。(中略) こうした、地方の下っ端警官によって、同胞が苦しめられた事件は、もし当時、記録に留めておくことができたとしたら、かなりの数に登ったことであろう》(93~96頁) 半田知雄は負け組の中心的論客の一人だったが、このような戦争中の出来事に関しては日記にこそ記しているが、実は代表作『移民の生活の歴史』などの大著の中には書いていない。いや、書けなかったのではないか。 実際、戦中の日本人迫害を詳細に描いた『南米の戦野に孤立して』(1947年)を出版してコロニアのベストセラーにした岸本昂一は、警察に出頭を命じられ、在庫全てを押収された上、約1カ月間も投獄され、以後10年間も帰化権はく奪や国外追放をかけた裁判と闘うことになった。 日本移民は、戦中には「枢軸国側の敵性移民」、戦後には「勝ち組テロリスト」として迫害を受け続けた。1946年から63年までは民主的体制だったが、その間も戦中に日本移民を迫害した政治警察(DOPS)などの公安機関は一貫して存続し続けていたからだ。戦後、岸本の置かれた辛い状態を知っている人なら、たとえ戦後であっても日本移民迫害を告発しようと思う者はいなかった。