《ブラジル記者コラム》恩赦委員会と資産凍結法廃止要請=終戦直後には犯罪だった皇室崇拝
「御真影や日の丸を踏めば釈放してやる」と警察が迫った踏み絵事件
この「日の丸事件」から勝ち負け抗争は始まった。3月7日、負け組のバストス産業組合専務理事の溝部幾太氏が暗殺され、4月1日には元日伯新聞編集長、元文教普及会事務長の野村忠三郎氏も勝ち組過激派に暗殺された。これを受け、警察は4月初めに臣道聯盟本部の役員、支部の役員、主要連名員約1200人を一斉に根こそぎ拘引・拘留した。 官憲によるこの異常な大量拘束で写真家の池田福男さんも監獄島アンシェッタに投獄され、警察の拷問を受けて1946年、24歳で亡くなった。ニッケイ新聞2019年10月2日付で奥原マリオ純さんが紀行した《文協総合美術展へ特別出品=拷問受け自殺した池田さん》(2)によれば、《池田福男さんはポンペイア市に住み、ツパン市の写真店で働いていた。すこし病弱で、繊細な芸術家タイプの青年だった》という。兄が実行犯グループの一人だったことから、共犯を疑われ、拘留・拷問を受けたという。 同じく勝ち組団体幹部というだけで島流しにされた故山内房俊さんの息子、山内アキラさんは、奥原純さんへのインタビュー映像で、「獄中のことを証言するよう父に何度も言ったが、話したがらなかった。日本人が嫌いな軍曹に酷い扱いを受けたと父は言っていた」と話していた。 大量拘束された勝ち組幹部らに対し、警察署では「日本が負けたと認めろ。その証拠として天皇の御真影か日の丸を踏みつければ、すぐに釈放してやる」との条件を出した。これが「踏み絵事件」だ。当時の「明治の日本人気質」が強い移民には強い抵抗があり、多くがそれを拒否した。 その結果、1946年6月頃から、御真影を踏まなかっただけの勝ち組団体・臣道聯盟幹部ら約150人に加え、襲撃事件の実行者約20人の計172人が監獄島(アンシェッタ)送りにされた。 1946年6月2日の脇山大佐殺害事件主犯の一人として自首したあとDOPSに拘留され、島流しにされた日高徳一さんは2013年1月23日、真相究明委員会のサンパウロ州委員会で次のように証言した。 「僕は実際に罪を犯しているから、自分のことを弁護するつもりはない。でも僕のようなのは島送りされた約170人中のほんの一割だ。残り9割は何の罪もない勝ち組というだけの人。DOPSで踏み絵を拒否しただけで島送りにされた。国旗を踏まないこと、皇室を崇めることが罪なのかと問いたい」と強く訴えた。 外山脩さんは勝ち負け同抗争関係者を丹念に取材して『百年の水流』を著した。その結果、「臣道聯盟はテロ事件とは直接的な関係はなかったから、襲撃事件参加者以外はみな、最終的に検察側が起訴できなかった」と結論付けている。つまり日本人で島送りにされた者の殆どは冤罪だった。詳しくは『百年の水流』を読んでほしい。 臣道聯盟関係の裁判記録、ヘルクラノ・ネベス著『O Processo da SHINDO Renmei e demais associações secretas japonesas no Brasil』(臣道聯盟ほかブラジルにおける日本の秘密組織の裁判、1960年)の最後には判決内容として、臣道聯盟に関する刑事訴訟は、1958年8月付で時効が宣言され、全ての被告人はその恩恵を受けると書かれている。 《6029頁から6032頁にかけて、ブラジルのサンパウロ地区第一刑事裁判所の担当裁判官は、6021頁の半田クラゾウ氏の要請書に記載された理由を受け入れ、検察庁の長文の意見書で正式に分析した結果、その要請書で主張されたのと同じ規定に基づいて、進行中の刑事訴訟は時効であると決定した。ダゴベルト・サジェス・クーニャ判事によって時効が宣告され、長年にわたり書類のどこかで表現され続けてきた気の遠くなるようなプロセスに終止符が打たれた。裁判の途中で死亡した者を除き、すべての被告人は恩恵を受けた。制限期間満了による訴えの法的制限により、刑罰消滅の判決という形をとった司法の決定は、1958年8月13日付である。これは確定した》 1千人を超える勝ち組幹部大量拘束の結果、時効成立、刑罰消滅の判決だったにも関わらず、政府は間違いを認めず一切謝罪をしてこなかった。このアンシェッタ島の件が、7月25日の恩赦委員会では主に審議される。ただし、サントス強制立ち退き事件の件もそこに含まれるように、奥原さんと沖縄県人会は準備を進めている。