廃止から20年。都会に出現した鉄道廃線「東急東横線」地上線跡の「今」
◆わずかな期間のみ復活した“幻の駅”
新太田町駅というのはかつて存在した東横線の駅である。案内板は表面が劣化しており、文字が読み取りづらくなっているが、新太田町駅について、次のように記されている。 『東京急行電鉄東横線新太田町駅は、1926年(大正15年)2月14日に開設され、1945 年(昭和20年)5月29日の空襲で被災したため6月1日より営業を休止し、翌年1946年5月31日廃止となりました。 その後、新太田町駅跡は、1949年(昭和24年)日本貿易博覧会が反町付近で開催されたときには、会期中(昭和24年3月15日~6月15日)に『博覧会場前』駅として旧駅を利用して臨時駅が開設されたこともありました。』 廃止後、わずかな期間のみ復活したことから、“幻の駅”とも言われているようだ。 散歩を続けよう。鉄道廃線跡を辿ろうとすると殺風景な景色の中を歩く場合も多いが、この道は「フラワー緑道」というだけあって、色彩豊かなさまざまな草木が目を楽しませてくれる。 また、足元を見れば、部分的にではあるがボードウォークにレールがはめ込まれている区間もあり、廃線旅の気分も味わえる。 新太田町駅跡から300mほど歩を進めると、反町駅の手前に、国道1号線(横浜新道)を跨(また)ぐ橋がある。この橋(東横フラワー緑道反町橋)は、かつての東横線の鉄道橋を活用している。 反町駅を過ぎると、やがて前方に「高島山トンネル」が見えてくる。このトンネルも、かつての東横線の遺構である。『東京急行電鉄50年史』には、高島山トンネル開削時の難工事の様子が、次のように記録されている。 『高島山隧道(ずいどう)は、当時、関東私鉄では例のない延長173.72mの複線隧道であった。当初は、大正15年1月に竣工の予定であったが、竣工まぎわになって隧道頂部に亀裂がはいったため遅れ、ようやく2月14日の開業日に間に合わせた。』 このトンネルが貫く高島山(神奈川区高島台)は、横浜の実業家で易学者でもあった高島嘉右衛門(かえもん 「高島易断」の祖、1832~1914年)ゆかりの地だ。 嘉右衛門は洋学校「高島学校」の開設や、ガス事業をはじめ、都市としての横浜の形成期に大きな功績を残した、「横浜の恩人」の1人とも言われる人物である。 嘉右衛門は鉄道との関係も深く、新橋―横浜(現・桜木町)間に敷設された日本初の鉄道建設工事に際し、力を尽くしている。 袖ヶ浦とよばれる深い入江で工事の難所とされた、現在の神奈川区青木町付近から桜木町駅(初代横浜駅)手前までの海面埋め立て(築堤)を請け負い、その工事を高島山(当時は大綱山とよばれた)から指揮監督した。 嘉右衛門によって造成された埋立地は「高島町」と命名され、今もその名を残している。 なお、高島山の頂上部にある「高島山公園」には、嘉右衛門を顕彰する「望欣(ぼうきん)台の碑」が立てられている。 実業界から身を引いた嘉右衛門が、かつて埋め立て工事を指揮したこの高台に大規模な山荘を築き、横浜の繁栄する様子を望みながら、「ひとり欣然(きんぜん)として心を癒やした」(「望欣台の碑」の説明板)ことに由来するという。