戦時中には食べられたことも 奈良の鹿と人間 100年の共生模索
ポストコロナの観光再開と円安の追い風で奈良公園(奈良市)は国内外の観光客でにぎわっている。寺社より鹿が目当てなのかと感じさせるほど、鹿たちが大人気だ。たくさんの人からせんべいをもらっている。「奈良のシカ」は国の天然記念物。古代から「神鹿」として大切にされ、今も加護を受けている。とはいえ野生動物。人との接触ゆえに摩擦も起こる。最近、観光客による暴力や保護施設での虐待疑惑が耳目を集めた。久しい“隣人”にとってこの100年はどんな年月だったのだろうか。 ◇「学生時代、眼鏡を3本割られた」 「最も変化したのは、ペットみたいに扱われるようになったこと」。元県奈良公園室長の中西康博さんはそう語る。東大寺境内にあった東大寺学園高校に通っていた時、「野性の怖さ」を体感することが度々あった。 野球場で水を飲んでいると、子鹿が寄ってきた。子鹿を守ろうとした母鹿が飛びかかってきて転倒した。「学生時代に眼鏡を3本割られた。当時はよくあることだった」と笑う。秋の風物詩「鹿の角きり」でも鹿の暴れ方はすさまじく、大けがをする人もいた。 県は「所有者のいない野生動物」と位置づけている。古代から春日大社や興福寺が「神鹿」として保護し、住民も信仰の対象としてきた。保護にあたったのは奈良町の町衆。中西さんは「もちろん春日大社や興福寺のお墨付きはあったが、自然信仰の一部として大切にされてきたのが実態ではないか」と話す。 ◇戦時中の食糧難で「仕方なく」 明治初期には廃仏毀釈(きしゃく)の直撃を受けて興福寺が力を失い、肉食文化の伝来に伴って食用にされて40頭を切ったこともあるという。憤った住民が「神鹿保護会」を結成。県の保護政策もあり、昭和にかけて頭数は回復した。 1929(昭和4)年には保護施設「鹿苑」が完成し、42(昭和17)年に1000頭にまで増えた。この頃には「角きり」や「鹿寄せ」が盛んに開かれ、「神鹿」の地位は回復したかに見えた。しかし、時はまさに戦時中。戦局の悪化に伴う食糧難で鹿は再び狩られ、食べられた。一時は79頭にまで減少した。「明治期と違い、背に腹は代えられず、仕方なく食べていたのだろう」と中西さん。 戦後、鹿は「神鹿」というよりは「奈良の財産」としての地位を確立してゆく。57(昭和32)年には国の天然記念物に指定され、65(昭和40)年には約900頭にまで回復。鹿を襲う野犬の駆除が進んだこともあり、現在は約1300頭にまで増えている。 ◇共生の難しさ 訴訟に発展 野生動物と人との共生は難しい。特に深刻だったのが農作物の被害だ。77(昭和52)年には約1000万円相当の農業被害があり、周辺の農家が賠償を求めて春日大社などを79(昭和54)年に提訴した。鹿に所有者がいるのかが争点になった。住民側は春日大社が所有者だと主張したが、春日大社は「神様が鹿に乗ってやってきたという説話が広まり、やがて神格化された。保護はするが、飼育はしていない」と主張した。 「鹿害訴訟」と呼ばれた訴訟は6年後に和解。保護団体「奈良の鹿愛護会」が和解金を払い、鹿の生息地区が分けられることになった。現在は鹿を保護する地域と、一定の条件の下で捕獲、駆除する地域に分けられ、捕獲された鹿は鹿苑に保護されている。 2023年、鹿の虐待疑惑が持ち上がった。中西さんは「野生の動物であって愛玩動物ではない。その原点に立ち返ってほしい」と訴える。今後100年はどうあるべきか。「鹿には鹿の生き方があることを認め、一定の距離を保つことが重要。なれなれしくせずに、お互い様という気持ちでのんびりと暮らしていくべきだ」【田辺泰裕】