渋沢栄一の帽子づくりの理念と文化を後世へ:Tokio hat(トーキョーハット)
新1万円札の顔になった渋沢栄一。「近代日本経済の父」と言われ、数々の企業を設立し、社会公共事業や福祉・教育に力を注いできた人物として広く知られている。 その渋沢が携わった事業のひとつに、帽子製造がある。かつて東京帽子株式会社を立ち上げ、流通まで一貫した製造・販売を行っただけでなく、いまもその事業は継続しているという。それこそが、オーロラ株式会社が手掛ける「Tokio hat(トーキョーハット)」だ。 渋沢の経営やものづくりの理念を継承し、挑戦的な帽子づくりとさらなる発展に取り組むブランドということで、同社商品統括部の山本勇樹さんに「Tokio hat」の歩みと帽子文化の広まりについてお話を伺った。
渋沢栄一が創業し、現在も残るもの
ー最初にオーロラ株式会社と東京帽子株式会社の関係について教えてください。 オーロラ株式会社は1896年創業で、再来年には130周年を迎えます。洋傘と和装のショールの卸売業から始まり、1993年から婦人用の帽子も扱うようになりました。現在も百貨店を中心に、様々な販路へ販売しております。 弊社は、東京帽子株式会社の紳士帽子事業を2007年から事業継承いたしました。帽子の型や従業員も含めて継承し、歴史を受け継ぎながら時代に合わせた提案を続けております。
ー東京帽子株式会社は渋沢栄一さんが創業したのですよね。 渋沢さんが創業に携わられた日本製帽会社が前身(1889年)にあるのですが、創業後すぐに火事に見舞われて工場が燃えてしまいました。その後、1892年に東京帽子株式会社として改めて国内初の製帽会社として創業されます。 その東京帽子株式会社が販売しているハットのブランド名が「トーキョーハット」となり、国内で製造・流通まで行っていくことになります。
ー渋沢さんが製帽会社を立ち上げられた際のエピソードは残っていますか。 渋沢さんは、1800年代後半に徳川慶喜の弟である徳川昭武と共にヨーロッパ視察へ行っています。そのとき、初めて紳士と呼ばれる人たちを目の当たりにしました。洋装で、帽子をかぶるという新たな文化との出会いですね。そこで、渋沢さんはその場で自分のまげを切り落とし、帽子をかぶって洋装で写真を撮っています。郷に入っては郷に従えの精神をお持ちだったのでしょう。 日本は明治維新によって、西洋文化を積極的に取り入れていく風潮でした。渋沢さんも経営者としての心が動かされたのだと思います。日本に帽子の文化を根ざす土壌を作ろうとして、その後、海外の職人から技術を学んだり、当時の最新機械を導入するなど尽力されました。 ー製帽において、従来日本にあった技術なども生かされているのですか。 渋沢さんの手腕によって、日本で初めて帽子づくりが行われるわけですが、最初はヨーロッパのノウハウを受け入れて、見よう見まねで作っていたと思います。 ここからが日本人の職人の気質だと思うのですが、繊細な技術や細部まで突き詰める精神が帽子のクオリティを高めていきました。次第にヨーロッパ製の帽子にも引けを取らないものになり、今度は日本からヨーロッパにメイド・イン・ジャパンの帽子として広まっていくことになります。それほどまでに、日本人の持つ技術力や性格が帽子づくりに反映されていきます。 ですが、残念なことに、帽子の需要は年々減少し、ファッションの一部として今も需要はもちろんありますが、かつての職人さんがお持ちだった技術は職人の高齢化もあり、後継者不足が帽子業界でも起こっています。コンピュータやAIが発達しても、当時の職人の技術をすべて取り戻すことはできないとまで言われています。 ー帽子の需要が下がった大きな理由はなんだったのでしょうか。 帽子産業全体を見ると、1900年代前半は洋装が一般の人々にも広まり、紳士とはこういうものだといったバイブル本も流通したことで、帽子がひとつのステータスになりました。当時の写真を見ると、帽子をかぶって外出する紳士淑女の姿が確認できます。 しかし、戦争や社会の変化によって、戦後には帽子の需要が大きく下がっていきます。そのきっかけのひとつが、車の台頭とも言われています。 車には屋根がありますから、帽子をかぶっていると天井に当たってしまいます。それゆえ皆さん帽子を脱ぐので、次第に帽子をかぶること自体少なくなっていきました。また、戦後の開放的な空気感もあり、髪型で自分を表現するファッションが生まれたことも関係していると思います。