私たちはなぜ人を愛するのか? そして何が真か、何が善か、何が美か……
人口が減少し、社会の成長が見込めない時代といわれます。一方で、科学技術の進化が、高齢化の進む日本の未来を、だれにとっても暮らしやすい社会に変えるのではないかともいわれています。わたしたちは一体どんな社会の実現を望んでいるのでしょうか。 幸福学、ポジティブ心理学、心の哲学、倫理学、科学技術、教育学、イノベーションといった多様な視点から人間を捉えてきた慶応義塾大学教授の前野隆司さんが、現代の諸問題と関連付けながら人間の未来について論じる本連載。13回目は「愛・真・善・美とは何か?」がテーマです。 ----------
前回に引き続き、2004年に『脳はなぜ「心」を作ったのか ── 「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房)を書いた時、お蔵入りになっていた原稿を公開します。 「愛・真・善・美とは何か?」です。
愛・真・善・美とは何か?
私たちはなぜ人を愛するのか? ささやかな〈私〉は時空を超えて宇宙に広がるネットワーク。そう考えると、私たちの自己意識である〈私〉は、なんだかほっとした気分のクオリアを実感する。〈私〉はひとりぼっちじゃない! しかし、同じような〈私〉が世界にたくさん散らばっていたとしても、それらがただ離れて孤独に存在しているだけだったとしたら、あんまり嬉しくない。というより、むしろ、寂しい。〈私〉たちは、孤立しているのだろうか。それとも、つながっているのだろうか? つながっているのであって欲しいが、もしそうなら、どのようにつながっているのだろう? 「心」を辞書で調べてみると、「心をこめる」「心を尽くす」「心ある」「心から感謝する」「心遣い」「心尽くし」「心強い」「心憎い」「心変わり」「心残り」など、情緒あふれる表現が並んでいて、人と人との暖かいふれあいを感じる。そう言われてみればそうだ。この本では、これまで、「心」は「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」から成る、などとかたいことをいってきたが、考えてみれば、心とは、もっと暖かいものだった。心と心はそもそもふれあっていたのだ。心のふれあいという、人間にとって最も根源的で大切なことと、〈私〉や「私」はどう関わっているのだろうか。 このことを考えるための鍵は、「愛」だ。 「愛」は一般に科学技術の研究対象ではないことになっているが、少し考えてみよう。 「愛」は少なくとも無機質な物理世界には存在しない。心が生み出したものだ。「嬉しい」「悲しい」といった一人称的な「情」と深く関わっているが、他人や外界との積極的な関わりあいである「意」にも関係している。単に「知情意」の一部なのではなく、心が作り出した「私」の大切な機能だと考えられる。 私たちは人を愛する。異性を愛し、子供を愛し、人類を愛し、大自然を愛す。もちろん、自分も愛する。なんのためにそんなことをするのだろうか? 愛とは何なのだろうか? ドーキンス(「利己的な遺伝子」ドーキンス(科学選書))は、人間の営みはすべて利己的な遺伝子の仕業だと考えた。つまり、人は遺伝子の乗り物にすぎず、人のあらゆる営みは、自分たちの子孫を存続しようとたくらむ遺伝子に操られた結果にすぎないというのだ。単純化していえば、人が生きるのは子孫繁栄のため、子孫繁栄は種の保存、すなわち、遺伝子の持続のため、ということになる。当然、愛、というクオリアも、遺伝子が作り出した概念、ということになるのだろう。 フロイトは、あらゆる心理状態は、無意識下のリビドー(性衝動)に帰着できると考えた。つまり、人のあらゆる行動は、根源的には性欲に支配されているというのだ。種を保存し遺伝子を生き延びさせるために必要なのは子孫繁栄だから、確かにすべてを性に帰着できるような気もする。 「愛」も、異性を思う愛情と、子供を思う愛情の二つに帰着させることを考えてみれば、なんとなく納得がいく。あらゆる愛情はこのふたつで表現できるような気がする。大自然や神を愛する気持ちは、母に抱かれた感じ(親の愛への依存)に相通ずるものがあるし、大学の学生が巣立っていくときの喜びは子供の成長の喜びに相通ずるものがある。そして、異性も子どもも子孫繁栄に関連する。そう考えると、愛とは本来、子孫繁栄のためなのものなのか、という気がしてくる。