『進撃の巨人』は殺戮者をどう描いたか。コミックス版から変更された「対話」を起点に高島鈴が読み解く
「殺戮者と英雄」ではなく、「エレンとアルミン」として行なわれた最後の対話
35巻で追加された、「ありがとうエレン」の直前のセリフをさらに引用してみたい。 「やっと気づいてくれたのか… / …いつでも足元にあったのに」「いつも遠くばかり見てるから」 この場面でアルミンはエレンに、血に濡れた巻貝を手渡し、エレンはそれを受け取っている。巻貝とはアルミンが抱く「見たことのないものへの興味」の象徴であり、ひいてはアルミンそのもののシンボルでもあるだろう。血は言わずもがなエレンが踏み潰した人たちのもので、エレンの罪が可視化された姿だ。血はあたり一面に満たされ、巻貝の存在を覆い隠している。 エレンは「めちゃくちゃ」(=巨人の能力の影響で参照すべき過去が混濁した状態)に陥り、虐殺以外の選択ができなくなってからも、アルミンたちが「大きな語り」のなかでどのように扱われうるかだけは配慮していた(34巻「お前達は生き残った人類すべての恩人になるだろう」より)。エレンにとっては、それが愛する仲間を苦しい戦いに無理やり巻き込むことへのせめてもの償いであり、虐殺の責任を自分に集約させるための手立てだったのだろう。 だがアルミンは、それを「いつも遠くばかり見てる」というさらりとした言葉でいなすのだ。「大きな語り」ばかり見ていないで、「小さな語り」にも目を向けてくれよ。私にはアルミンがそう告げているように読める。 もっとシンプルに言い換えたっていい――「歴史の教科書に何が載るかってことだけ考えてないで、僕がいま何を考えてるかも聞いてよ」ってことだ。そしてアルミンがここで何より聞いてほしかったのは、自分は共犯者なんだ、自分にも責任があるはずなんだ、というメッセージだった。エレンはそれを静かに受け取った。 最後に、互いの針は静かに振れたのだ。
アルミンが試みる「語り」。考え方の違う相手へ、「残虐な歴史」を、どう伝えるか
終わりに、34巻から35巻での変更点のうち、重要な部分を指摘しておきたい。ラストシーン、連合国の和平大使としてアルミンたちがパラディ島へ赴くところだ。34巻では、アルミンはこのように話している。 「アニ…争いはなくならないよ / でも……こうやって一緒にいる僕達を見たら みんな知りたくなるはずだ / 僕達の物語を / 散々殺し合った者同士がどうして パラディ島に現れ…平和を訴えるのか / 僕達が見てきた物語 / そのすべてを話そう…」 このセリフは、じつのところ34巻と35巻でほぼ変わらない。だが35巻では、「物語」が「物語り」表記へと変更されているのである(*4)。 あくまでもアルミンが語るのは、アルミンの「物語り」=ナラティブ=「小さな語り」なのだ。誰か一人に責任を集約させるような、ましてやアルミンと対話する前のエレンが想定していたような、「大きな語り」ではない。「人類の英雄」としてではなく、ただの「アルミン・アルレルト」として、アルミンは自分の話をしに行こうとする。 連合国の和平大使という「大きな語り」の渦中にいるにも関わらず(同行のジャンが「歴史の教科書を読む女生徒」を意識して髪を整えていることからもみなが「歴史」を意識しているのは明らかだ)、アルミンはあえて、個人の方向に振れてみせるのである(*5)。 アルミンもまた、はざまに立っている。まだ戦争の火種はなくならず、パラディ島にも連合国側にも、エレンめいたことを考えている人は大勢いるだろう。それでも、手探りで世界の真実を探そうとした調査兵団最後の生き残りは、対話を決して放棄しない。その肩には戦火に加わった者の責任があるから。そしてそれは、いまはもういない大事な友人と、きっちり分け合ったものだから。 (*4)同時に35巻では、「僕達が見てきた物語り」と「そのすべてを話そう…」のあいだ間に「感じた痛み」という吹き出しが追加され、そのうえ上からさらにバツ印がつけられて不採用になっている点にも注目しておきたい。この場面でマーレ側の和平大使であるアルミンが自らの「小さな語り」として「痛み」の問題を出したとき、おそらくパラディ島側は自分たちの「痛み」をむしろ「大きな語り」=国家全体の問題として持ち出さざるをえなくなるのではないだろうか。それはあまりに国交として相手の態度を硬直させてしまう振る舞いであり、確かにここでアルミンが自分の痛みについてことさらに強調するのは「まずい」のである。 (*5)この箇所が「物語」ではなく「物語り」だろう、という指摘は、すでに以前書いた批評でも行なっている。 同じクラスに意味もなくめちゃくちゃに加害的なやつがいたら、なんて話しかけたらいいだろう? 『進撃の巨人』を読み返すたび、いろいろなことを考えるけど、最後に私の脳裏に浮かぶのはいつもそういう想像だった。これはすごく個人的なレベルの話ではある。でも同時にそれは、どうしようもなく自分から遠い存在であるところの他者と、どうやって同じ世界で生きていけばいいかな、ということでもあるのだ。 『進撃の巨人』は極めてスケールの大きい政治的なファンタジーだけど、それと同じくらいささやかな個人の存在に圧倒されることを忘れない。詰まるところ、対話ってそこからなんだと思う。相手の存在、それそのものだけは絶対に否定しないこと。 窓から風が吹いてくる。あの子のシャツが静かに膨らむ。頬杖をついた背中、未発達な骨の形が、影になって少し見える。 ねえ、と口に出す。あの子は一回じゃ自分ってわからないかもね。答えが返ってくる確証もない。それでも、もう一回言う。 ねえ。何見てるの?
テキスト by 高島鈴 / リードテキスト・編集 by 森谷美穂