『進撃の巨人』は殺戮者をどう描いたか。コミックス版から変更された「対話」を起点に高島鈴が読み解く
『進撃の巨人』を読み解く二つの「語り」
諫山創『進撃の巨人』は極めて政治的な物語だ。 前半は主人公エレンが現生人類にとって未知の世界である「壁の外」の世界を目指し、人を食らう巨人に立ち向かっていくアクション漫画だが、後半では壁の外にも世界が広がっていたことが発覚、物語は一変する。 自分たちがかつて大陸を侵略した巨人化できる人類「エルディア人」であること、エルディア人が世界中から差別感情と憎悪を向けられていること、軍事大国マーレによる侵攻を目前にしていることを知ったエレンたち「壁内人類」は、あらゆる手段で世界との和平工作を試みるがことごとく失敗。以前とは異なる意味で追い詰められていった。 その状況下で「壁の外をまっさらにしたい」という衝動を抑えられなくなったエレンは、和平より軍事を選択する人びとを束ねて利用しながら、壁外への虐殺に及ぶのだ。かつてエレンとともに壁外を夢見た仲間たちは、遺恨を飲み込んでマーレの人々とも協力し、エレンによる虐殺を止めるために動き出す。 『進撃の巨人』を読み解くために必要な概念を、ここで二つばかり設定してみよう。一つは「大きな語り」。これには大局的な語り、歴史の教科書に載るような「歴史」、あるいはアメリカの歴史家であるヘイドン・ホワイトが言うところのヒストリカル・パスト=歴史的な過去(*1)が含まれる。 もう一つは「小さな語り」である。こちらには、個人史、ナラティブ、あるいはヘイドン・ホワイトが言うところのプラクティカル・パスト=実用的な過去(*2)が含まれる。 『進撃の巨人』では、それぞれのキャラクターが「大きな語り」と「小さな語り」のあいだで揺れる個人として立ち現れてくる、という点に、つねに注意を向けておきたい(*3)。 前者を取りこぼしてしまえば、本作の政治性は捨象され、ただただ友情と愛で綴じられた / 閉じられた物語として読み筋が狭められてしまう。後者を取りこぼしてしまえば、「ごく普通の人びと」が情や他者の存在に揺らぐことの意味を極めて重くとらえている本作の意義を大きく見失うことになるだろう。 私はこの立場に沿って、エレン・イェーガーとアルミン・アルレルトという主要登場人物に焦点を当て、その揺らぎを語り直してみたい。『進撃の巨人』に関して、私はすでに歴史叙述という視座から2万字にわたる批評を執筆しているが、今回は総集編映画の劇場公開に合わせて、あらためて物語の骨子を見つめようと思い立ったのである。 (*1)ヒストリカル・パスト:歴史学的な過去。専門知として蓄積された歴史学の手続きを踏んで歴史化された過去のこと。教科書に掲載されるような過去を想像して貰えばわかりやすい。 (*2)プラクティカル・パスト:実用的な過去。われわれが日常で語っている過去のことすべて。人は無意識に過去について語り、それを参照して未来を創造している。 (*3)今回あえて「大きな語り」「小さな語り」という曖昧な概念を設置しているのは、物語の中では対立軸的に現れてくるが実際には対立していない概念(例えばヒストリカル・パストはプラクティカル・パストの一部であって、それぞれが独立した概念ではない)を、あえて対立的に読ませるためであり、この文章の外でも有用な概念では必ずしもないことに注意してほしい。