『進撃の巨人』は殺戮者をどう描いたか。コミックス版から変更された「対話」を起点に高島鈴が読み解く
コミックス最終巻から、二人の対話の内容が変更された背景
どうしてエレンとアルミンなのか? 端的にいえば、この二人は物語後半で決定的な対立を迎えたのち、最後の最後に「罪の分かち合い」ともいうべき極めて重要な対話を交わしているからである。 最終話の対話のエッセンスは、コミックス版34巻においては「……エレン / ありがとう / 僕達のために… / 殺戮者になってくれて / 君の最悪の過ちは無駄にしないと誓う」というセリフに集約されている。だが、この発言はエレンが起こした虐殺に対するものとしては極めて問題含みだ。 実際に作者はこのシーンについて「あの描き方だとアルミンが虐殺を肯定していると捉えられておかしくないと思います。僕の描き方が未熟でした」(『進撃の巨人 キャラクター名鑑 FINAL』 / 講談社)と明言している。 その反省に基づき、作者はアニメ版最終話の作成に際してセリフを大きく変更した最終話のネームを切り直している。この変更後の最終話ネームは、『進撃の巨人 画集 FLY』(講談社キャラクターズA)に付属するコミックス35巻に収録されることとなった。 今回は34巻版と35巻版の最終話を比較検討しながら、エレンとアルミンはどのように「揺れて」いたのか、そしてセリフの変更によってどのように語りがあらためられたのかを考えてみよう。おそらくそこから、完結から3年を経たいま、新しく掘り起こせるものがあるはずだ。 なお、35巻はあくまでアニメ最終話制作前につくられたものであり、制作過程でさらに手が加えられたことが明示されている。今回はあくまで35巻のみを取りあげ、アニメ版のセリフを比較対象に含めない。アニメ版最終話がどのように変更されたかは、ぜひ劇場で確認してほしい。
なぜエレンは人類の虐殺を実行したのか。二つの「語り」のはざまで出した結論とは
まず、セリフによる改変の影響がほぼ及んでいない、「大きな語り」におけるエレンとアルミンの立ち位置を確認していく。 エレンはパラディ島の虐殺支持派=「イェーガー派」の頭目であり、始祖の巨人の力をはじめとする巨人の能力を駆使して世界人類の8割を虐殺した。その目的は、壁外人類がパラディ島へ報復戦争を起こせない状況にまで世界を追い込むことであり、パラディ島のエルディア人を守るための行動として解釈されている。 一方アルミンはエルディア軍人でありながらパラディ島に背き、「世界平和のためにエレンを殺害して虐殺を止めた“英雄”」だ。 では実際にエレンとアルミンという人物を考えるとき、この文章そのままで語り尽くせるのだろうか、というと、決してそうではないだろう。まずエレンの虐殺の動機は、当初はパラディ島を守ることにあると本人も考えていたようだが、実際は異なっている。 「オレは…地表のすべてをまっさらな大地にしたかった…」(34巻) 「オレは… / 平らに…したかったんだ… / …この景色が見たかった…」(35巻) と説明されているのが、真の動機に当たるものなのだ。そのあとに「…何でか / わかんねぇけど… / やりたかったんだ… / どうしても…」というセリフが続くのは35巻も同様だが(表記には揺れあり)、35巻ではさらに「どうしてこうなったのか…やっとわかった」「馬鹿だからだ / …どこにでもいるありふれた馬鹿が…力を持っちまった / だから…こんな結末を迎えることしかできなかった… / そういうことだろ?」というセリフが追加されている。 つまりエレンの動機は、「大きな語り」に沿った政治的な意図よりもはるかに大きな要因として、「エレンがただまっさらな大地を見たいと望み、そのようなごく個人的な願望を、本当に実行してしまう愚か者だったから」なのだと、ほかならぬエレン自身が結論づけているのである。 この箇所は、34巻から35巻にかけて趣旨自体は動いていないものの、よりエレンが自分自身の暴力をただ振るいたいがために振るわれたものであると強調する語りへ変更されている。 ここがあらためられているのは、物語がパラディ島の子どもたちから始まっている以上、エレンの動機が「パラディ島の仲間を守るため」という政治的な意図で解釈されてしまった場合に、読者にはエレンの虐殺がむしろエモーショナルな正当性を持つように見えてしまうからだろう。 作者は明らかにネームの切り直しを通じて、虐殺の否定をより重んじるように調整をかけている(そしてそれは極めて本作において重要なことだ)。エレンの結論が「自分がありふれた馬鹿だから」という極めて薄っぺらなものなのも(実際にそうであり、そうでしかないのだ)、虐殺の意味のなさ、空虚さを強調する意図に基づいているのだろう。 重要なのは、「大きな語り」においてはエレンの行為が政治的に解釈されており、「小さな語り」においてはエレンの行為は政治以下的暴力でしかない、という物語内での二重性である。エレンという個人は、そのはざまにいるのだ。