【厩舎のカタチ】ホースマン人生を変えた学び ~武英智調教師~
週末のレースだけが競馬じゃない――。和田慎司記者が紡ぐ厩舎関係者たちの物語。その人が持つ哲学や背景を掘り下げ、ホースマンの実像を競馬ファンにお届けする。
【厩舎のカタチ/武英智調教師】
夜の帳(とばり)が下り、そよ風に揺れる木々が一層静寂を引き立てる、栗東トレセン。構内のある場所に、同じ志を抱くホースマンが集う。9月から11月――調教師免許試験の一次後から、二次の直前――までの、夢をかなえるための学び舎。舞台は武英智厩舎の大仲(スタッフの休憩所)、通称〝武英塾〟である。 「ただ、ウチでやっているだけですよ」 武英智調教師はこう言って笑う。医学、法規、馬学…夜が明け厩舎全体が色を取り戻しても、いくつかの教材が置かれたままだ。 「調教師になった者が伝えていく、つながりが続けばと。(二次試験を受ける)彼らのためもですが、まだ一次を通っていない人や受けていない人のために、という思いもあります」 今年の塾生も過去の合格者数も、片手を優に超える。そして武厩舎には、来年から受験予定のスタッフがいるそうだ。それが師にとって何よりうれしそうに映る。 「僕が勉強した時も〝みんなで頑張りましょう〟という雰囲気で頑張れたから」だとも教えてくれた。そして師にとって、〝学び〟が人生を変え、今なお、歩みを支えているからでもある。 1999年に騎手デビューし、初年度は22勝、翌年18勝。幸先の良いスタートを切ったが、3年目から勝ち鞍が激減し、乗り鞍を得ることもままならず。さらには国指定の難病サルコイドーシスを発症し、減量が困難になった。憧れて進んだ騎手の道。葛藤を抱えながら、どこかで踏ん切りをつけなければならなかった。 2012年夏、武英智騎手の引退が内々に伝えられた。「ウチに来ないか」。関係者から〝ヒデ〟とかわいがられ、調教技術に定評のあった彼のもとには、調教助手転身の依頼が多く舞い込んだ。すべてをありがたく思う中、声をかけた一人に木原一良調教師がいた。 「英智のタイミングでいいから、納得がいって辞めるとなったときにはウチに来てくれないか」 期限を決めず、待つ。華々しい表舞台に別れを告げる男にとって、気持ちを固めるには十分すぎた。ただ最後まで騎手をまっとうするうち、1、2か月と時が過ぎた。その間もちろん、木原師からの催促はない。秋の訪れが近づく頃「お世話になります」と返事した。 騎手・武英智の心に寄り添った男はこのとき、ひとつだけ条件を出した。 ――調教師を目指してくれないか。 当時、木原師の子息が調教師試験を受けておらず、何より自身にもそのビジョンがないわけではなかったが、それは〝いつか〟ではなくなった。その日のうちに試験勉強用の教材を注文したかと思えば、次に向かったのは、ニトリ。騎手時代は無縁の学習机を調達した。「今日から勉強始めるわ」。その言動に家族が驚いたのは、言うまでもない。 「乗れるうえに、何より賢い子だからね」 互いに調教師となった今も、武厩舎の出走馬を気にかけているという木原師はこう懐かしむ。「5年以内に受かります」と武騎手は宣言。簡単ではないとクギを差されたが、その難関を4回目で突破。唯一の課題に、しっかりと結果で応えた。 その中でも、調教助手としての仕事に注力した。すぐに溶け込み、半年たつ頃には調教メニューやレース選択も受け持ち、最終的には馬の出し入れ(入退厩)やオーナーとの連絡まで任せてもらう機会も得た。すべてを学び吸収したことで、18年に開業しても「その経験のおかげで、延長線上として始められました」。初年度9勝、2年目は19勝。船出は上々のものとなった。