「浮島丸殉難者追悼の碑」を見て胸に刻め、彼らがなぜ死んだのかを
[2008年の記事を再掲] 沈没した強制徴用労働者の帰国船「浮島丸」 「殉難者追悼の碑」建立30周年に取材に応じた余江勝彦会長
保守的な日本社会において「加害の歴史」を記録することは容易ではないはずだ。むしろ第2次世界大戦終盤の米軍による原爆や無差別空襲などの「被害の歴史」を強調する人々が多いのが現実だ。だからこそだ。「浮島丸殉難者を追悼する会」の余江勝彦会長(67)の活動に改めて目がいく。 日本が敗戦を宣言してから9日後の1945年8月24日午後5時20分ごろ、京都府舞鶴市の佐波賀沖で爆発、沈没した海軍の特設運送艦が「浮島丸」だ。日本政府はこの事件で549人が死亡したと発表したが、乗っていた朝鮮人強制徴用労働者とその家族は3735人にのぼる。徴用で青森県に連行され、あらゆる苦難を経て「解放」された祖国へと向かう途中だった。乗船者名簿を見ても、創氏改名のせいでどれほど多くの朝鮮人が命を落としたのかは分からない。 事件から33年後の1978年8月24日、下佐波賀に「浮島丸殉難者追悼の碑」が建てられた。以後、無残に亡くなった朝鮮人労働者とその家族のための追悼式は1年も欠かすことなく30年間続いている。特に今年(2008年)8月24日には、殉難の碑建立30周年を記念して舞鶴市民会館前で700人以上が参加する中で行われた。「被害の歴史」だけでなく「加害の歴史」も伝えていくことに力を注いできた余江会長に話をうかがった。 ―浮島丸は当初、釜山(プサン)に向かっていたが、急に航路を変更したと聞いた。 1945年8月22日に青森県の大湊港を出港した浮島丸に乗っていた日本人乗務員は25人。彼らは敗戦後の混乱した状況で釜山に行ったら捕虜になるのではないかと不安だった。当時、水の補給のために航路を変えたと説明されたが、乗務員の中には家族に「行くのは舞鶴まで」と言っていた者もいた。船が爆発、沈没したのも、海岸に投下された機雷のせいなのか、意図的に爆沈させたのかは明らかになっていない。 ―事件が世に知られたきっかけは? その年の9月16日、舞鶴から788人の朝鮮人が「雲仙丸」に乗って釜山に向かった。その中に浮島丸事件の生存者がいたため、この事件が朝鮮で知られるようになった。雲仙丸は釜山から日本の陸軍の2千人の兵を乗せて10月7日に帰国した「帰国船第1号」となった。彼らも朝鮮で聞いた話を日本で広めた。日本政府の公式発表は、事件発生から46日後の10月8日になってようやく出た。今も朝鮮人犠牲者の遺骨が海の底に沈んでいる。事件は終わっていない。 ―「浮島丸殉難者追悼の碑」が建てられた背景は? 事件を永遠に記憶しようということで、1976年に当時の佐谷靖舞鶴市長を代表とした委員会が設置され、2年後に碑を除幕した。在日朝鮮人の事業家たちから寄付を提案されたが、丁重に断った。日本人がすべきことだからだ。 ―日本人としては思い出したくない「加害の歴史」であるはずだが。 犠牲者たちは観光しに来て事故にあったのではない。帰国船が沈没し、ついに祖国に帰ることができなかった。彼らは何のために日本に来たのか。日本が引き起こした戦争を遂行するため、また本土防衛作戦のために強制的に連れてこられた人々だ。このような歴史を風化させてはならない。すべての日本人に伝えなければという責任を感じる。 ―韓国の市民社会との交流にも格別な関心を持っているとうかがっている。 このごろは退職金も底をついたためなかなか行けないが(笑)、以前は多い時には月に2回韓国に行って、全国を回って人と文化を学んだ。タルチュム(仮面の舞)やタル作りに夢中になっていると、よく尋ねられた。あなたは一体どこの国の人なのかと。「アジア人」と答えた。今後も韓国と日本の市民社会が互いを知っていく上で「かけ橋」役を果たしていきたい。追悼集会は亡くなった人々の魂を慰めるためだけにやっているのではない。歴史の過ちを二度と繰り返さないという約束だ。 大阪/ファン・ジャヘ専門委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )