痛手と不思議な絆と立ち直りをめぐる短篇集 私たちの生を写すリアリズムの虚構―津村 記久子『うそコンシェルジュ』鴻巣 友季子による書評
◆生を写すリアリズムの虚構11篇 些細に見えて人を深く傷つけたり不快にさせたりする行為に明確な名称が与えられるようになった。ハラスメントは細かく分類され、他にも、マウンティング、マンスプレイニング、マイクロアグレッション、上から目線(この日本語の言い回しはcondescendingという英単語に初めてぴったりくる訳語を与えた)などなど。 とはいえ、あらゆるオフェンシヴな行為を専門用語で説明できるわけではないし、説明したとしても、日々霧雨のように降ってくる細い矢は避けきれない。そうした小さな深傷というべきものを書かせたら、津村記久子は人後に落ちない作家だ。 『うそコンシェルジュ』は痛手と不思議な絆と立ち直りをめぐる十一篇の短篇集だ。 第一篇の「第三の悪癖」には、自分の良からぬ習慣をコントロールするアプリゲームがいきなり登場する。語り手の女性「私」のアバター<kakiage−soba>は、「私」が「やってしまった」と感じてボタンを押すとダメージを負うように出来ている。 こと細かく自らの“悪事”を数値化して可視化するという発想が、まずちょっと怖い。でも、そういう自己管理系のアプリはすでに実在しているのだろう。 今日も「私」のアバターの体力は残り二ポイントだ。「私の」悪癖とは、会社の備品をくすねるという軽罪に肯定を求めてくる旧友麻奈美に対して絶対口にはできない文言を頭の中で並べ、ネガティヴ思考に陥ること。 しかし「私」の本当の痛手は麻奈美に下目に見られていると感じるところにある。「私」が奇妙な連帯感を育む同僚中山さんも母親のことでストレスを抱えており、二人は中山さんが実家から盗んできた母の食器を会社の駐輪場で割ることで、黒い感情を逃がすようになる。 表題作の「うそコンシェルジュ」と「続うそコンシェルジュ」はとくに秀逸だ。善意のうそがつぎつぎと転がりだし、奇想天外な人の輪が出来あがる。 語り手の「私」は本人いわく、「うそつき」ではないが、うそに対して勤勉なため、うそのパフォーマンスが良い。そんな「私」はうその立案と実施を請け負うようになってしまう。例えば、サークルを退会したり飲み会を早退したりするための妥当な言い訳を考え、芝居を演出するのだ。 サークルの友人、先輩にいじられ続けて疲弊している「私」の姪。お祖母さんの資産を守ろうと気をもむ男子学生。自分をばかにしながら近くに置きたがる友人が嫌でたまらない会社員……。語り手は、姪をいじるキラキラ女子たちはなんらかの心の「通気孔」を必要としているのだろうと考える。 痛手を与える側からも書かれているのが、「私」の部長の姪に関するエピソードだ。 姪と部活メンバーは山登りで体調を崩し、これを顧問教師の責任としてリコールを迫る動きが起きる。姪の母の要請は執拗で病的な域に入ってくるが、彼女が心を鎮めたのは意外な対応だった。 人間には心の安全弁と排出口が必要だ。小説という私たちの生を写すリアリズムの虚構はその役割を果たしてきたはずだ。少なくとも本書においては、それが心地よく機能している。 [書き手] 鴻巣 友季子 翻訳家。訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ1-5巻』(以上新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(河出書房新社 世界文学全集2-1)、J.M.クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『イエスの幼子時代』『遅い男』、マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』(以上早川書房)『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)、T.H.クック『緋色の記憶』(文春文庫)、ほか多数。文芸評論家、エッセイストとしても活躍し、『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋)『熟成する物語たち』(新潮社)『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)『本の森 翻訳の泉』(作品社)『本の寄り道』(河出書房新社)『全身翻訳家』(ちくま文庫)『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくまプリマー新書)『孕むことば』(中公文庫)『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮社)など、多数の著書がある。 [書籍情報]『うそコンシェルジュ』 著者:津村 記久子 / 出版社:新潮社 / 発売日:2024年10月30日 / ISBN:4103319844 毎日新聞 2024年12月7日掲載
鴻巣 友季子