【ウォール街回想記3】米金融業界、激動の1960~70年代 誰が勝ち抜いたのか
米国のニューヨーク州マンハッタン南端部に位置する「ウォール街」は、世界の金融センターとしてその名を轟かせています。日本の金融機関が米国に進出しはじめたのは1960年代後半。当時は米国証券会社に日本人が直接雇用される例はたいへん珍しかったそうです。 日本株の取引が世界で注目され始め、著者は米国の証券会社バーナム・アンド・カンパニーの国際調査部のアナリストとして、日本経済分析や主要銘柄の業績分析を担当しました。ベトナム戦争泥沼化や米国株の大暴落など、波乱に満ちたウォール街デビューだったといいます。 ◇ ◇ 米国株式市場は、第2次大戦時から1960年代末まで、ほぼ一貫して上昇を遂げました。戦時体制に入り、米国の産業は軍需を満たすべく、本格的な生産体制に入った1942年時点でダウ工業平均は95ドルの安値を更新。以後中断なく高値を更新しつつ1968年11月には1000ドル目前の985ドルに到達しました。しかし1000ドルの大台を確実にするには、それから13年の歳月を要したのです。
1960年代の米国株式市場 投資銀行の繁栄期
1960年代の米国は、戦後最強の黄金時代から、大きな変遷を辿った10年でした。ケネディ政権が発足し、市民権運動を伴う、一層豊かな民主主義体制構築目標は、ベトナム戦争の泥沼化により挫折の苦しみを味わいました。その間米国産業は、一方では世界に翼を伸ばし、多国籍化に邁進するのと同時に、国内では、集約化の一環としてコングロマリット(複合企業)台頭が大いに注目され、株式市場も活況を呈した時代です。 米国の証券会社は一方では伝統的な投資銀行業務、他方では個人投資家を対象としたブローカー業務に大別され、業務内容や形態、ひいては社会的地位も異にしていました。金融業務は銀行と証券に大別されます。個人預金をもとに流動性資金を供給するのが「銀行」です。資本市場で資本調達を請け負う「投資銀行」と資本市場での流通を円滑にする「ブローカー」の双方が「証券会社」です。当時、米国の資本市場において株式や債券発行に携わる投資銀行業務は、大手銀行を上回る社会的地位を謳歌していました。