長野ハルさんが死去…ボクサーが歩む道を照らし続けた優しい灯りが静かに消える
【君島圭介のスポーツと人間】 見学です。と、突然訪問した私を長野ハルさんは黙ってジムに入れてくれた。 同じ帝拳の看板を掲げた福岡のジムで練習していることを告げると「あらそう。会長はお元気?」と気さくに応じてくれた。 大場政夫とともに沢木耕太郎氏のノンフィクション作品に登場した伝説のマネジャーが隣にいる。緊張しないはずがない。 リングの上ではデビュー戦を控えた粟生隆寛がスパーリングを行っていた。 習志野高で「高校6冠」を達成。鳴り物入りでプロ転向した粟生の柔らかい動きとシャープなカウンターに感心していると、長野さんが「おなかが空いてるのね」とつぶやいた。 食事してきました、と答えそうになったが、私に言ったわけではなく粟生の減量が一番厳しい時期で、そのせいで動きが悪いのだと教えてくれたのだった。 私には完璧な動きに見えたが、長野さんのボクサーを観察する目は見事なまでに正確だった。 帝拳ジムに所属する選手は、世界王者を狙えるような逸材でもなければ、長野さんの「目」が怖くてしかたないのだと聞いた。 負けが込んだり、ダメージが残るようなダウンを喫した試合の後、長野さんから「あなた、もう辞めなさい」と告げられるという。 選手が辞めたくないのは分かっている。でも続けても上にはいけない。だったら体が健康なうちにリングを降りなさい、という宣告だ。 黒星が続いても、本人の希望を尊重し、「納得するまでボクシングをやらせたい」と、選手の引退を先延ばしにする会長やトレーナーは多い。 中には苦節何十戦目でベルトを巻く選手もいる。一方で、目が潰れ、ろれつも回っていない元ボクサーも何人も見てきた。 長野さんの有無を言わせない引退勧告は冷たいようで、本当はボクサーを愛情に満ちた目で見守っていた証拠だった。 1日午後8時40分、老衰のため死去したと帝拳ボクシングジムが発表した。 99歳。 キラ星ではない。75年以上にわたって多くのボクサーが歩む道を照らしてくれた優しい灯(あか)りだった。