映画『若武者』を世界同時公開&配信開始…「New Counter Films」が切り拓く新しい邦画製作のカタチとは
馬乗りから映画制作の現場へ
――関さんは映画の世界に入る前は馬術をやっていたとのことでした。 関: 小学校6年生の時から26歳までずっと馬乗りでした。障害飛越競技の全日本Jr.強化指定選手で、専門学校を出た後はイギリスに留学し、イギリスのオリンピックライダーの下で働いていました。 そして、イギリスでフラットメイトだったのがコギトワークスを一緒に立ち上げた、脚本家のいながききよたかです。彼がイギリスの映画専門学校に通い始めてから課題を手伝うようになり、映画が面白いと思い始めて。 ちょうどイギリスのビザがこれ以上更新できないということもあり、帰国するなら馬に乗るのは辞めて、方向転換しようと決意しました。 その頃、日本で卒業した専門学校の先輩たちは既に映画界に入っていました。帰国後、先輩たちにイギリスで映画制作を手伝った際に感じたことを話したら、「それ、プロデューサーっていうんだよ」と目指すべき方向性を言っていただき、「来月空いてる?」と聞かれて。それから様々な現場に呼ばれるようになり、フリーランスの映画制作部になったんです。 日本映画の現場にも多く参加しましたが、一方で英語を話せたので、海外との合作チームの現場にも呼ばれました。クエンティン・タランティーノ監督『キル・ビル』(2002)、ソフィア・コッポラ監督『ロスト・イン・トランスレーション』(2002)、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』(2010)などに参加しました。 ――商業映画の現場から経験を積んだのですね。 関: そうです。映画会社が監督、俳優、スタッフを正社員として雇用する撮影所のシステムがなくなって以降は、独立系のプロダクションがフリーランスのスタッフを集めて作っています。 僕は2000年から2008年までフリーランスの制作部として活動していましたが、当初は、監督や内容で仕事を選ぶのではなく、スケジュールが空いているから参加するという感覚が正直強かったです。 ただ、経験を積んでいくにつれ、業界3年目でラインプロデューサーを務めるようになり、脚本の分析、予算の管理、スタッフィング、撮影、仕上げまでの責任を負うようになりました。 ラインプロデューサーとして、多くの作品に参加しました。ラインプロデューサーは謂わば映画制作の玄人です。現場のことを一番理解しているといいますか。ただ、その反面、実はその企画のゼロ地点にはいないというのも事実です。 この世界に入った時に先輩に言われたように、私がやりたいことはプロデューサーです。なので、次第に現場のみを担うのではなく、自ら企画開発を行うようになりました。 ――その頃、コギトワークスを起業したのでしょうか。 関: はい。私の周りの優秀な先輩方も映画会社を立ち上げていました。ただ、映画プロデューサーとしては20年以上のキャリアがあっても、会社を設立して1年目だとなかなか資金調達や、会社としての信用を得られないといった状況も同時期に見ていました。 その時30代前半でしたが、今、会社を設立登記しておけば、40過ぎたら会社は設立10年になる。早くに起業した方が後々有利になると考えて「株式会社コギトワークス」を設立登記しました。 今は、「企画がすでに決まっているものを制作プロダクションとして請け負う作品」以外にも、「製作委員会に参画し製作する作品」や「海外との共同製作を行う作品」または、「企画・製作・配給までのすべてを自社で行う作品」など、多様なスタイルで映画を作り続けています。