「早朝に通院、4時間の透析を終えてから出社」「飲みたいのに、水も飲めない」…多くの人が知らない「働く透析患者」の過酷な生活
「私たちは必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それが分からなかった」 なぜ、透析患者は「安らかな死」を迎えることができないのか? どうして、がん患者以外は「緩和ケア」を受けることさえできないのか? 【写真】透析を止めると、その先に「まともな出口」はない…「透析大国日本」の現実 10年以上におよぶ血液透析、腎移植、再透析の末、透析を止める決断をした夫(林新氏)。その壮絶な最期を看取った著者が記す、息をのむ医療ノンフィクション、『透析を止めた日』(堀川惠子著)が刊行された。 『透析を止めた日』は、これから透析をする可能性のある人、すでに透析を受けている人、腎臓移植をした人、透析を終える時期が見えてきた人だけでなく、日本の医療制度全般にかかわる必読の書だ。 本記事では、〈透析を止めると、その先に「まともな出口」はない…約35万人が透析を受ける「透析大国日本」の「知られざる現実」〉につづき、過酷な透析医療の現実について見ていく。 ※本記事は堀川惠子『透析を止めた日』より抜粋・編集したものです。
仕事と透析
透析という医療は、私が想像していたよりも遥かに過酷なものだった。 それまでの私は、仕事一色の生活を送っていた。複数の大型番組を抱えて海外ロケが続き、林も、ひと月に十数本の番組を担当して透析もしている。少しでも時間をともに過ごすには、一緒に暮らすしかなかった。そうして私は、林の壮絶な生活を目の当たりにすることになった。 透析患者は週に3回、クリニック(透析施設)に通わなくてはならない。彼の場合は「火・木・土」だ。勤め人の場合、3回のうち1回を、平日ではない土曜に透析できれば仕事への影響を減らせるから、クリニックは「月・水・金」より「火・木・土」の午前がよく混み合った。 詳しくは後述するが、透析とは、体中の血液を入れ替える治療だ。一般的に1回の透析で血液を浄化するには4時間かかる。透析前後の着替え、穿刺(シャントに針を刺して透析できる状態にすること)、透析後の止血までの処置をあわせると、クリニックでは毎回4時間半強を過ごすことになる。 当時、林は残業200時間に迫る生活を送っていた。仕事の時間を捻出するには、透析は早朝か深夜に行うしかない。幸い、会社に近い渋谷エリアに午前6時から透析を始められるクリニックが一軒だけあった。ここなら午前11時前にはすべての処置を終え、着替えも済ませて会社に向かうことができる。昼前の出社は、テレビ局では通常の勤務スタイルだ。 週に3回、林とともに午前5時すぎに起きた。 朝食はとらず、着替えだけ済ませ、目をこすりながら家を出る。私の運転する車で、クリニックまで20分足らず。彼は最初、「ひとりで行くよ」と遠慮していたが、自分だけぬくぬくとベッドで寝ている気にはなれない。私はよく早朝に坐禅をしていたので、早起きなど苦にならないだろうと軽く考えていた。 東京の真冬の午前5時すぎは、真っ暗闇で底冷えも厳しい。これに雪や雨でも降ってくれば、気分はいっそう滅入る。同じ午前5時でも、夏になると景色は一変。東の空には日が昇り、辺りはあっけらかんとした明るさだ。冬でも夏でも、暗かろうが明るかろうが、とにかく命をつなぐためにクリニックに通う。坐禅は、自分がやりたいからやる。しんどかったら、やらなくてもいい。透析は、やらなければ、死ぬ──。そのプレッシャーたるや坐禅と比することのできるようなものではなかった。 一回り年下の私でも体力的に楽ではないのに、林はこの過酷なルーティンを、それが当然といわんばかり不平不満も言わず黙々とこなしていた。 番組制作が終盤に差し掛かると、連日のように徹夜が続く。編集室で夜明けまで作業をして、その足で透析クリニックへ向かう。4時間の透析が終われば、また昼から出社して作業の続きをする。生活に、人生に、一片の隙間もない。 振り返れば私と最初の番組をつくったときも、午前3時ころ、赤坂の編集室にフラッと姿を現し、編集の様子を覗いた後、「ちょっと寝させてくれ」といってソファに横になり、また明け方に起き出してどこかへ消えることがあった。大した指示もしないのに、なぜわざわざ赤坂まで、と不思議に思ったが、あれは透析クリニックが開くまでの間、自宅に帰らずに過ごすためだったのだろう。ほとんど無茶だ。まるで体に鞭を入れて走り続けているようなものだ。 しかし、林の姿は己に少しの緩みも許さぬような感じで、どこか気迫に満ちていた。いつ死んでも悔いはないようにと、全力で疾走するかのような人生。中途半端な介入は許されないと思い、私はとにかく必死で伴走した。