一代にして財閥を築き上げた日本の武器商人・大倉喜八郎
戦争の陰で暗躍する武器商人。鉄砲から核兵器まで売り捌き、巨万の富を得てきた彼らの実態とは何か。前記事に続き、ここでは日本を代表する武器商人を紹介しよう。『死の商人』(岡倉古志郎著、講談社学術文庫)から引用する。 [写真]大倉喜八郎
大倉喜八郎の鉄砲商売
モルガン青年〔アメリカの財閥をつくったJ・P・モルガン〕がインチキなカービン銃を種にボロもうけをした数年後、日本でも鉄砲商売で大もうけをした男がいた。その名を大倉喜八郎といい、後の大倉財閥の始祖である。 喜八郎は一八三七年、いまの新潟県の新発田藩の名主の子として生れた。伝記によると一七歳の時に父を、翌年には母を失い、姉から二〇両の餞別をもらって江戸に出た。一八歳の喜八郎は麻布飯倉の鰹節屋に奉公、三年後には主人から養子に見こまれたがこれをことわり、二一歳のとき上野で塩物店をひらいて独立した。 当時は、勤皇、佐幕両派の対立で世間は物情騒然だった。この時勢を炯けい眼がんにも見てとった喜八郎は「鉄砲商売」こそ致富の捷径であると考えた。そこで、神田に開店したのが大倉銃砲店である。そして、明治維新の動乱の時機に銃砲店をひらいたことが、「死の商人」としての喜八郎の成功のきっかけになったのである。
彰義隊に詰め寄られ、死を覚悟する
一八六八年五月、官軍は怒濤のように江戸にせまっていた。上野の山にこもった彰義隊は、その官軍にたいしてデスペレートな最後の抵抗をこころみようとしていた。「死の商人」喜八郎がその「死の商人」としての面目を発揮したつぎのエピソードはこのときにおこったものだ。 五月一四日のこと、神田和泉町の大倉銃砲店に突如一五、六名の彰義隊士が訪れ、主人の喜八郎を有無を言わさず上野の山に引き立てて行った。何しろ、その前日、谷中の芋坂で、同じ鉄砲屋の島屋新兵衛の手代、車屋七兵衛の手代の二人が彰義隊の機嫌をそこねてバッサリ斬られた直後のこととて、喜八郎もいずれは死を覚悟して行ったことであろう。 行ってみると、案のじょう、幹部の前に引きすえられ、彰義隊に納める約束の鉄砲をなぜ官軍に売ったのか、ときびしい詮議である。このときの喜八郎の返答こそ、あっぱれ「死の商人」の面目をかがやかしたものだった……。 「さよう、たしかに鉄砲をお売りする約束をいたしました。しかし、わたしは商人でございます、金をもうけなくては妻子も養えず、くらしも立ちませぬ。ですから、現金さえお払い下さるならば、どちら様へでもお売りするわけです。何も、ことさら官軍にばかり御奉公いたしているわけではございません。商法に従って取引申し上げたまででございます」 これには、彰義隊の幹部連中も度胆をぬかれたろうが、何しろ鉄砲不足に悩む折だった。 「それでは、お前の店にミュンヘル銃はあるか」 「はい、ただ今、あいにく手元にはありませんが、横浜まで参りますれば二〇〇挺はおろか、三〇〇挺、五〇〇挺もございます」 「そうか、手に入ると申すか。では、明日中に三〇〇挺、ぜひ届けてくれ」 「代金さえいただければきっと納めます」 こうして、喜八郎は死地を脱したのみか、大口の商取引をむすんで帰宅した。