一代にして財閥を築き上げた日本の武器商人・大倉喜八郎
江戸で流行した狂歌
「明治初年の一介の鉄砲屋が大倉組となり、さらに大倉財閥にまで発達するに至った動機を求めるならば、それは戦争である。……大倉財閥は『戦争成金』といわれるが事実そのとおりである」、 たとえば、「倒幕時代には、鉄砲をば、幕府だろうと官軍だろうと代金の入るところには、どんどん輸入して納め、もって巨利を得てその基礎をきずいた」、「明治維新にさいしては、官軍に兵器、食糧を供給した功により、その後維新政府の軍部御用商人としての特権を独占した」、「西南戦争、台湾征討では軍需品輸送で巨利を博した」、「日清戦争では『石コロ罐づめ』を納入して暴利をおさめ」、「日露戦争でも軍需品の輸入、輸送で大もうけをした」(勝田貞次『大倉・根津コンツェルン読本』)。 敵を討つ鉄砲積んでその船を仇の港へ入れる大胆 これは明治初年に江戸で流行した狂歌だが、津軽藩の家老西館平馬から「男」と見こまれて鉄砲二五〇〇挺の注文を受け、これを藩米一万俵とバーターする契約で、チャーターしたドイツ汽船に積みこみ、みずから積荷とともに乗船、佐幕派の監視をかすめて送りとどけた「死の商人」喜八郎の冒険にアッといわされた江戸っ子の驚嘆ぶりがよく歌われている。
学術文庫&選書メチエ編集部