相次ぐ水害と過疎化対策に「住まい方改革」を
2018年の平成30年7月豪雨(西日本豪雨)に引き続き、今年も日本各地を大規模な風水害が襲いました。特に台風19号に伴う豪雨は、東日本各地で同時多発的に河川氾濫を引き起こし、犠牲者も多数発生するなど、甚大な被害となりました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、毎年のように日本を襲う水害に対して「建築と住まいで防御する」という考え方を提案しています。若山氏が独自の視点で論じます。
水害と堤防のイタチゴッコ
好天に恵まれ、祝賀御列の儀は粛々と、つつがなく終了した。新皇后の笑顔に国民はひと安心の感覚をもったのではないだろうか。 今上天皇は「水」を研究しておいでだという。温暖化による異常気象の問題もあり、水は現在の世界できわめて重要なイシューとなりつつある。そして日本ではこのところ大きな水害が続き、東日本大震災のときと同様に、もっと堤防を高くしろという意見が出ている。 しかし災害のあとのマスコミ報道は、被害者へのシンパシーからどうしても情緒的なものとなりやすい。そしてそれに同調する政治も情緒的な政策を取りがちである。つまり水の被害が出ればそれ相応の対策を打たざるをえず、海の防潮堤も河川の堤防もより高くなるイタチゴッコのような現象が起きることになる。これをいつまで続けるのだろうか。すでに限界が来ているのではないだろうか。 この水害と堤防の問題に対して、僕の専門である「建築と住まい」の視点から問題を提起し、日本列島の今後のビジョンにつなげてみたい。
東日本大震災と防潮堤と南海トラフ地震
東日本大震災では、数百年に一度といわれる津波によって大勢の生命が失われた。民主党政権であったが、マスコミ報道の情緒性につられて情緒的な対策が講じられ、巨大な復興予算が組まれた。予算がつけば役人はこれを短期間に執行しなければならずてんてこまい。かなり無駄な事業もあった。そして高大な防潮堤が建設されることとなる。マスコミは安全も必要だが安心も必要だと声高に論じたので、予算消化にはもってこいであったのだ。 しかし実際には、高すぎる防潮堤は、あたかもベルリンの壁のように陸と海とを隔ててしまう。長いあいだ海の仕事で飯を食ってきた地元の人たちはそれに気づいて反対したが、政府の方針は変わらない。喜んだのは予算消化ができる役人たちと、復興特需に沸いた土木業者たちであった。 一方、現在の日本で深刻な被害が予測されている地震と言えば、東海地方から南九州までの南海トラフ地震である。この地域には津波をもろにかぶる海抜の低い人口の多い都市がひしめいている。もし高い防潮堤をつくるなら、むしろそちらの方ではないかと思われるのだが、情緒に押し流された政策は、すでに起きてしまった地域に対処し、これから起きる地域に対処しないのだ。 とはいえ、防潮堤ばかりつくっていると、日本中をコンクリートの箱に入れるような結果になってしまう。それでいいのだろうか。 そこで視点を変えて、水害を堤防ではなく建築で防御するという考え方を取れば、比較的簡単な方法で惨事を回避できるのである。東日本大震災の津波でも、RC(鉄筋コンクリート)造の建物は例外的なものを除いて流されていない。物がぶつかる力で一階の壁は破損するが、構造体自身は残っているのだ。つまりあの地域に数百メートルに一棟でも、4階建て以上のRC造建築が配置され、高台にではなくその建築に避難する想定になっていれば、あれほどの死者を出さずに済んだのである。 もともと必要な公共建築なり集合住宅を適正に配置し、いざというときに避難者を受け入れる合意ができていればいいだけの話であるから、コストはほとんどかからない。要するに、滅多に起きない大津波や大河川の氾濫に対しては、堤防で防ぐより、建築で人命を助ける方がずっと合理的なのだ。 ところがこの日本では、災害に対してそういった合理的な選択ができないのである。そこには日本独特の自然風土と社会構造の問題が絡んでいる。