水俣病マイク遮断問題で発言を封じられた82歳男性が伝えたかった妻の記憶と、国に願うこと 68年たっても全容解明されぬ「公害の原点」、環境省の不手際の背景に浮かぶ、患者認定の高いハードル
5月8日、熊本県水俣市。「深くおわび申し上げます。本当に申し訳ありませんでした」。頭を下げる伊藤信太郎環境大臣の姿があった。向かう相手は、水俣病の被害者団体の一つ「水俣病患者連合」の松崎重光副会長(82)。その1週間前、水俣市で開かれた環境省との懇談で、発言を途中で遮られた「マイク遮断問題」の当事者だ。 【写真】「3分でマイクオフ」と明記された環境省の司会者の台本 水俣病被害者の発言遮断問題
懇談の場で松崎さんは、被害を訴えながらも患者認定されないまま、約1年前に79歳で亡くなった妻悦子さんとの思い出を語っていた。環境相に直接、思いの丈をぶつけられる機会は、ほとんどない。無念のまま離別した妻の最期を振り返っていたその時、不意にマイクが切られた。「1団体3分」の持ち時間を超過したことが理由だった。 このマイク遮断問題で環境省は強い批判を浴びた。伊藤環境相は8日、松崎さんへの謝罪の場でこう宣言した。「環境省が水俣病被害者の皆さんと真摯に向き合って、解決できるようにしっかりと環境行政を全力で進める」 水俣病は公式に確認されてから68年が経過したものの、被害の全容はいまだ明らかになっていない。被害者側は、症状を訴える人々のさらなる救済を求めている。患者認定や損害賠償を求める訴訟も続く。「公害の原点」とも呼ばれる水俣病を巡る混乱。何が解決していないのか。(共同通信=小松陸雄) ▽あの日、松崎さんが訴えたかったこと
水俣病が公式確認されたのは、日本が高度経済成長の入り口に立ち、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた1956年。5月1日に熊本県水俣市の漁村で「原因不明の疾患」が発生したと水俣保健所に届け出があった。その5月1日には毎年、水俣病犠牲者の慰霊式が水俣市で執り行われている。そして慰霊式の後には例年、環境省の主催で懇談の場が用意される。 今年の懇談は、伊藤環境相のあいさつで始まった。「皆様のお話を伺える重要な機会だ」。取り囲む被害者団体の参加者らを前に、こう呼びかけた。 松崎さんは簡単な自己紹介を済ませ、妻悦子さんの話を始めた。「私の家内は、去年4月に『痛いよ痛いよ』と言いながら死んでいきました」 2人が出会ったのは、松崎さんが15歳のころだ。漁師の父を亡くした悦子さんは、弟や妹を養うため、朝早く漁船に乗った。着衣に魚の鱗をつけたまま遅れて登校することも。松崎さんによると、悦子さんは強気だが、気が利いて「人間が良かった」。2人は9年間の交際を経て結婚し、漁師になった。住まいは、水俣市に隣接する芦北町だった。「ご飯を一緒に食べて、一緒に起きて、ずっと一緒。良い相棒だった」