木村政彦に師事し、山下泰裕、ヒクソン・グレイシー、ロブ・カーマンと闘った世界で唯一の男
高3のときには、のちに〝世界の山下〟となる九州学院の山下泰裕と国体予選で組み合った。山下は西より2歳下で、すでに「怪物」と呼ばれており、巷では「山下と組み合ったら、高校生なら1分持てばいい」とさえ言われていた。 山下との対戦の結果は? 「確か48秒だったと記憶しています。なんか中途半端なタイムだと思いました(苦笑)。でも、本当に強かった。足の裏が畳に貼りついている感じがしました」 ヒクソンやカーマンだけではなく、世界の山下とも闘っていたとは! 試合映像が残っていれば、お宝ものだろう。1973年のインターハイで山下と決勝を争った諏訪剛(鹿児島実業)とも対戦した経験を持つ。勝負は判定までもつれ込み引き分けた。のちに諏訪は講道館杯で3連覇を達成し世界選手権にも出場しているのだから、西の柔道家としてのポテンシャルは非常に高かったといえるだろう。 ■木村政彦は即答した。「それは中指だな」 高校卒業後、西は上京し拓殖大に進学。柔道部入部後すぐに、高校時代に都大会でベスト4になった選手と組み合う機会があったが、拍子抜けするしかなかった。 「弱い、弱い。やっぱり当時の九州の強さは図抜けていると思いましたね」 当時の拓大といえば、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とまで言われた不世出の柔道家・木村政彦が監督だったが、その木村とは高校2年のときに早くも接点があったという。 「地元(長崎)のお寺の僧侶さんが木村さんの先輩ということで木村さんが来られたことがあったんですよ。先生の歩いている姿を見ただけで、すげぇと思いました」 そのときの木村は生徒たちに胸を貸すことはなかったが、直接アドバイスをくれた。西は遠慮することなく実戦的な質問をぶつけた。 「大外刈りを仕掛けるとき、軸足はどこに体重をかけたらいいんですか? 親指ですか? 小指ですか?」 木村は即答した。 「それは中指だな。中指の内側にかけろ。親指はダメだ」 その重心のかけ方による大外刈りは木村式で、のちに西はそのかけ方は木村の一番弟子で、全日本王者となったのちに全日本プロレスに入団寸前までいった岩釣兼生にしかできないと悟った。 拓大に進学した理由は4つ上の兄も拓大だったということもあった。西は迷うことなく柔道部に入部した。 「拓大の体育寮に入ったけど、基本的にその8割は九州人。その九州人の半分は熊本人でしたね」 時はコテコテの昭和。先輩からの命令は絶対で、下級生がヤキを入れられることなど日常茶飯事だった。正座させられたひとりの下級生を上級生たちが集団で囲み、「キサマ、わかっているのか?」という決まり文句からヤキは始まった。