トランプのふしぎな勝利(下)“危険な賭け”人々は革命を求めた 大澤真幸
変化なき変化
もう一度、クリントン側を見よう。繰り返すと、そこには、ほとんどすべての立場、すべての価値観が多文化主義的な包摂されている。だから負けるはずがないように見える。しかし、彼女は負けた。ということはどういうことか。その「すべての立場」が前提にしていること、どんな価値観を主張するものも「それだけは前提だよね」と自明視していること、そのことが有権者に拒否された、と考えなくてはならない。それは一体何なのか。 トランプのふしぎな勝利(上)顰蹙発言・行動に米国人は惹かれた 大澤真幸
強盗に助けを求めるようなもの
答え。それは、グローバル資本主義である。これだけは基本的な土俵である。これだけは、受け入れなくてはならない。これさえ、グローバル資本主義さえ受け入れてくれれば、どんな立場、どんな価値観でも許容しよう。これが、クリントン陣営である。 多文化主義とか、political correctnessとは、グローバル資本主義を受け入れる限りでの多様性ということである。それだけ受け入れれば、どんな立場も寛容に平等に受け入れましょう、というわけだ。だって、そうでしょう。これ(グローバル資本主義)以外の選択肢はないのだから。……というのがクリント側の主張である。 すると、当然、グローバル資本主義の不可避の産物は、グローバル資本主義に必然的に随伴するものは受け入れなくてはならない、ということになる。たとえば、それは何か。とてつもない不平等や、とんでもない階級的搾取である。それは、幾分かは緩和できても、無にすることはできない。資本主義は、「格差(不平等)」を食って生きているのだから。 そうすると、クリントン側の主張は、欺瞞的なものにも聞こえてくる。なぜかと言えば、彼女たちは客観的には次のような態度をとったことになるからだ。一方で、「私たちはどんな価値観も公平に平等に受け入れます」と言いながら、他方で、最も過酷な不平等(資本主義がもたらす格差)だけは容認する、と。 有権者からすると、こんな気分になる。ろくな収入も仕事すらもなく、社会から、「お前はゴミだ」と言われているときに、移民も大事だとか、LGBTの人に寛容に、だとか言われてもなあ~。かつてのオバマ大統領のスローガンを変形させると、クリントンのスローガンは、客観的にはこうである。Change without Change. 資本主義という枠組みを変えないならば、どう変えてもよい。…ということは、本質的なところは変わらない、ということになる。格差や搾取は、基本的にはそのままなのだから。