トランプのふしぎな勝利(下)“危険な賭け”人々は革命を求めた 大澤真幸
強盗に助けを求めるようなもの
では、トランプの側はどうなのか。彼は、グローバル資本主義を拒否し、何か新しい選択肢を提示したということなのか。そうではない。そう簡単にはいかない。確かに、トランプは保護主義的なことを主張しているので、グローバリゼーションを(部分的に)拒否しているように見える。しかし、資本主義を拒否しているわけではない。というより、自らが資本主義の権化のような人物であるトランプは、クリントン陣営に負けず劣らず、資本主義を肯定している。 トランプが言っていることは、実質的には次のようになる。資本主義がもたらす成果、それがもたらす富をいただこう。ただし、「格差」は抜きにしてみせよう。いや、少なくとも、アメリカ人は搾取されない(仮に搾取する側になるとしても)資本主義にして見せよう。 実際、トランプを支持している人が期待したのはこれである。資本主義の実りである富はある。しかし、自分たちは絶対に搾取されない。そんな資本主義をいただこう。 それで、そんな資本主義は可能なのか。無論、不可能である。そんな都合のよいことができるくらいなら、最初からそうしている。トランプが公約したこと、トランプに期待していることは、端的に不可能だ。それは、「資本主義なき資本主義」と言っているに等しいからだ。 にもかかわらず、人々は、トランプを支持したとき、半信半疑ながら、そんな都合のよいことが、搾取なき資本主義のようなことが可能かもしれない、という夢を見ているのである。半信半疑ではある。だから、アイロニカルな没入なのだ。しかし、アイロニカルであっても、没入は没入である。 だが、どうしてそんな夢を見ることができるのか。ここで、あの顰蹙を買った言動が効いてくる。非常に寛容な多文化主義でさえも、さすがに容認してくれそうもないような、あからさまに非道徳的な言動をとること。非の打ち所もなく、反論もできないようなpolitical correctnessのルールを、堂々と恥ずかしげもなく蹂躙すること。このことが、誰もが当然のように前提にせざるをえない地平の外に出ることが可能だ、という幻想を生むからである。拒否できそうもない地平とは、もちろん、グローバル資本主義である。 多文化主義やpolitical correctnessは、いわば、グローバル資本主義の政治的な表現である。誰もが、それらを蹂躙することには躊躇を覚える。どこかおかしいところがある、何か胡散臭いと感じても、どうしても、多文化主義やpolitical correctnessを否定することはできない。そんなふうに感じているとき、一人の男が、平気な顔をして、それらを侵犯し、蔑ろにしてみせた。このとき、人々は、別に、彼の人種主義や性差別がすばらしい、と思うわけではない。ただ、その言動は、多文化主義やpolitical correctnessと表裏一体にくっついているグローバル資本主義の外に出ることが可能なのかもしれない、ということを表現するサインになるのだ 。 だが、結局は、トランプもその支持者も、矛盾したことをやっている。考えてみれば、トランプ支持者の行動はこっけいである。貧困な者、所得が伸びない者は、自分たちを惨めさから解放してもらおう、とトランプに投票した。だが、考えてみれば、トランプのような人、資本主義の中で巧みに渡り歩いてきた人、投機によって儲け、節税という名前の合法的な脱税を続けてきた人、その人こそ、彼らの惨めさの原因(のひとつ)ではないか。強盗に襲われたとき、警察に行かないで、強盗自身に助けを求めているようなものだ。