トランプのふしぎな勝利(下)“危険な賭け”人々は革命を求めた 大澤真幸
〈可能なる革命〉のために
だから、1年か2年もすれば、アメリカ人は失望するだろう。自分たちの失敗に気づくだろう。トランプは、結局、できることしかできない。もしかすると、彼はわりと普通のことをやるのかもしれない。それでも上出来だと言う人がいるが、しかし、それではダメだ。人々は、「普通」ので状態の継続を望んで彼に投票したわけではないからだ。トランプに投票しているとき、人々が望んでいることは、この「普通」の状態からの解放、逃れられない牢獄のように見えているこの状態からの解放だ。彼らは、望んでいる。不平等や搾取から解放され、豊かになることを、である。しかし、その願望は満たされないだろう。約束は果たされまい。トランプの支持率は下がるに違いない。 ならば、やはり、アメリカ人はクリントンの方を選ぶべきだったのか。普通はそう考えるところだが、私は、現在の選挙結果を前向きに考えることにした。 絶対に優位だと思ったクリントンが負けた。ということは、人々は、ある意味で、「革命」を求めているのだ。ここで革命というのは、自明とされている前提を――つまり資本主義を――相対化するような変動という意味である。この自明の前提(グローバル資本主義)そのものの帰結が、もはや耐え難いのだ。 では、トランプを選んだということは、それ自体、「革命」なのか。そうではない。今述べたように、それは失敗に終わる。端的に不可能なことを実現しようとしているのだから。 だからといって、クリントンを選んだとしても、救われはしない。クリントンを大統領にするということは、致命的な生活習慣病を抱えながら、対症療法だけで延命するようなものだ。細々と寿命を少しは延ばすことにはなるが、致命的な病は致命的な病だ。人は病を徹底して治す機会を逸して、いずれ死ぬ。 トランプは危険な賭けだが、そのはっきりとした失敗を媒介にして、人々は、初めて、真の革命の必要を自覚するだろう。私は、つい先日、『可能なる革命』(太田出版)という本を出したばかりだ。トランプ大統領(の選択)自体は、未だ〈可能なる革命〉ではない。しかし、それは〈可能なる革命〉に至るために、絶対に通過しなくてはならない試練であり、失敗なのかもしれない。クリントンを取っていたら、革命は端的に不可能になっていた。