苛烈なカスハラ、劇場で作られた風船爆弾。今日と戦時下に刻まれた「傷」を描く二冊を紹介(レビュー)
千早茜氏『グリフィスの傷』(集英社)は、身体にある傷を通して、登場人物たちの中にひそむ痛みを書いた短編集である。最初に収録されている「竜舌蘭」の主人公は、デパートの受付で働く女性だ。理不尽なカスハラを受けて「思い知らせてやりたい」と憤る後輩に対し、主人公は「罵倒されるごとに血を吐けばいい」とささやく。確かに、怒鳴るたびに店員が血を吐いたら、クレーマーも逃げ帰るだろう。そんな穏やかでない想像をする主人公の太ももには、傷痕がある。クラス全員から無視されていた頃に起きたある出来事が、描かれていく。 「グリフィスの傷」とは、ガラスにつく目に見えない傷のことなのだという。表題作では、そういう小さな傷が積み重なって壊れてしまったガラスのマリアさまが、象徴的に描かれている。人は、他者の心の傷にはとても鈍感だ。誰かの心が壊れかけていても攻撃を続けるし、やったことはすぐに忘れてしまう。血が流れれば見ぬふりはできないし、ガラスが割れれば後悔するのに。過去に自分が受けた痛みと、私に傷つけられた人から流れ出た見えない血のことを思う。傷はいつか癒えても、何もなかったことにはならないのだ。
小林エリカ氏『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋)は、太平洋戦争の末期に東京宝塚劇場で働いていた女学生たちの物語である。戦時中、学徒動員があったことは知っている。劇場が閉鎖されたことも知っている。しかし、東京宝塚劇場が兵器工場になっていたことは知らなかった。 三つの高等女学校に在籍していた「わたし」の記憶が、語られていく。「わたし」は一人ではなく、名前も定められていない。何人もの「わたし」の日常を、著者は膨大な資料と自身による聞き取りを縫い合わせるように書く。幼い頃から現在まで、群像劇が上演されるように、時間が進んでいく。 「わたしたち」が中国と戦争を始め、日常から豊かさが失われていく。劇場では、ショウやレヴュウが上演されなくなる。憧れていた制服を着ることもできない。「わたしたち」の兵隊が、占領した街で行っていることを知らないまま、「わたし」は東京宝塚劇場に動員される。自分は無力でないことを信じ、同級生と一緒に和紙を貼り合わせて、巨大な風船をつくる。戦争が終わり四十年も経って、「わたし」は、自分たちが作っていたものについて、知らされていなかったことを、ようやく知る。 小説の中で起きるさまざまな出来事に、頭の中にある知識を重ね合わせることならできる。だが、それだけでは「わたしたち」の国で起きたことを、理解したことにならないのではないだろうか。彼女たちの苦しみや後悔は、今につながっている。自分の問題として心に刻みつけようと思う。失われてはならない貴重な記録を、遺そうとしてくれた証言者たちと著者に感謝したい。 [レビュアー]高頭佐和子(書店員。本屋大賞実行委員) 都内書店にて文芸書を担当 協力:新潮社 新潮社 小説新潮 Book Bang編集部 新潮社
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