活動写真弁士・澤登翠 : セリフと情景描写で音のない映画に命を吹き込む
スマホさえあれば、誰もが簡単に動画を撮影・編集までできる現代からするとまったくイメージがわかないが、日本に初めて映画がもたらされた130年前は、映像には音がなかった。映画には弁士がついて、登場人物のせりふから、場面の説明までいれていた。芸歴50年、日本だけでなく、世界でも数々の公演を重ね、何百もの無声映画に息を吹き込んできた活動弁士・澤登翠が、活弁の魅力を語る。
無声映画時代の大スター
鎖国を解いた日本に西欧の文化が流入してきた明治時代。日本にもたらされた当時の映画には音声はついておらず、動く写真=活動写真と呼ばれた。もちろん、映像だけではストーリーは理解できない。そこで、活弁(活動写真の弁士)が場面の説明を織り交ぜながら、せりふを語り、楽士が演奏する音楽が、ドラマをよりドラマチックに演出する上映スタイルが生まれた。 映画がヒットするかどうかはひとえに弁士の話芸にかかっていたという。喜劇は軽妙な語り口で観客を笑わせ、切ない恋の物語はたっぷりと情感を込めて涙を誘う。観客は悪役の登場にブーイングしたり、弁士の熱演にやんやの拍手を送ったりと映画館はさながらライブ会場のような熱気に満ちていた。最盛期には全国で7000人とも8000人とも言われる弁士がいたという。人気弁士は今のアイドルのような存在で、 “追っかけ” もいたほど。 技術の進歩は目覚ましく、無声映画時代はそれほど長くは続かなかった。1927年に米国で音声と映像を同期したトーキー映画が登場すると、無声映画は徐々に廃れていった。俳優が話す言葉や、背景音が映像とともに流れるようになれば、弁士がいなくても映画は成立する。むしろ、映像の世界観を邪魔する存在とさえ思われるようになった。 しかし、活弁は絶滅していなかった。細々と、しかし力強く生き延び、日本独特の語り芸として、今、再び、注目を集めている。
“語り芸” の延長線上に生まれた活弁
いまや活弁界のレジェンドと呼ばれる澤登翠の公演に足を運んだ。 2023年12月29日、年も押し迫る慌ただしい時期にも関わらず、新宿の紀伊国屋ホールは満席で熱気に満ちていた。演目は、喜劇王バスター・キートンの名作短編『キートンの悪太郎』(1921)と、第1回アカデミー賞で監督賞、主演女優賞、脚本賞を受賞したフランク・ボーゼイギ監督の傑作『第七天国』(1927)。 澤登がスクリーンの左側にしつらえた演題の前に立つ。照明が落ち、スクリーンに映像が映し出されると、澤登の声が会場中に響き渡った。 ずる賢いけれどどこか憎めない若者、貧しくも強く生きるヒロイン、意地悪な姉、裕福な伯父と叔母、年老いたタクシー運転手…登場人物によって声色を使い分け、息づかいまで変化する。さらに、せりふとせりふの合間には、巧みにナレーションを差しはさむ。 まるで何人もの声優がアテレコをしているかのように感じるが、語るのは澤登1人だ。 活動弁士と声優では、役割が大きく異なる。澤登は、「セリフだけを声にするのが声優。物語全体を語るのが活動弁士。セリフも解説的な情景描写も語る。つまり物語をつかさどる役割を担っている」という。 澤登は「活弁」は、日本の伝統芸能の長い歴史の延長線上にあると考える。その象徴が人形浄瑠璃文楽だ。 文楽の人形は言葉を発することがない。人形遣いは黒子姿で無言で人形を動かすだけだ。舞台の上手(かみて)側に設けられた床(ゆか)で、浄瑠璃に載せて太夫(たゆう)が登場人物のセリフや心情、ストーリーを語り、三味線がドラマを盛り上げる。 名人と呼ばれる域に達する太夫は70代~80代の高齢男性だが、可憐な姫やふてぶてしい侍を自在に演じ分けるのは見事としか言いようがない。 他にも落語や講談、浪曲などストーリーを観客に語り聞かせる “語り芸” と呼ばれる伝統芸能が日本には根付いている。 「語り芸の下地がある日本に西洋から無声映画が持ち込まれた。スクリーンに映っているものを説明しなきゃいけないし、演じている人のせりふも言わないといけない。どうせなら、面白おかしく、観客を楽しませなければ…と興行主は考えたのでしょう」。必要性と娯楽性が合わさって、スクリーンの両側に弁士と楽士を配して映画を上映する日本ならではのスタイルがで出来上がったのだという。 フランスの映画界にも映画の黎明期に「compère」と呼ばれる活弁に似た職業があったが、日本で無声映画の時代に大スターとなった活弁のようにはいかなかった。