活動写真弁士・澤登翠 : セリフと情景描写で音のない映画に命を吹き込む
舞台に立つまでの厳しい道のり
修業時代は師匠の公演の前座として、『チャップリンのスケート』などの短編映画の弁士を務めた。同じ映画を何度も何度も繰り返し語ることで、自分のスタイルを確立していった。 「本格的な長い作品を語るには、その映画を徹底的に理解しなくてはいけない。時代背景や、監督が映像を通じて何を伝えようとしているのか。演じている俳優が、他にもどんな作品に出演していたのかなど調べることは尽きない。今と違って、インターネットもない時代。一つひとつのことをどうやって調べるのかということも悩みのタネだった」 なによりも難関だったのは、弁士として語る自分の台本をオリジナルで書くことだった。 「入門した当時はビデオもない時代で、先生の家でフィルムを回してもらうしかない。3回くらい繰り返し見せてもらい、必死でストーリーを頭に入れて家に帰って、台本を書く。あらかた出来上がったところで、先生の家に行ってもう一度、フィルムを回してもらいながら、修正をする。フィルムが傷んでしまうので、そんなに何度も何度も回してもらうわけにもいかず、見せてもらう時も真剣勝負。台本が書き上がると、最後にもう一度、フィルムを回してもらい、先生の前で語って指導してもらう」
日本から世界へ
デビュー15年目の1988年、フランスのアヴィニョン演劇祭で、活弁を世界に披露する機会を得た。 サイレント時代を代表する俳優で、反骨的なヒーロー役を得意とした、阪東妻三郎主演作の映画の語りを任されたのである。その公演をきっかけに、アメリカ、オーストラリア、ブラジル、ドイツ、イタリア、オランダ、フランス、ベルギーなど毎年様々な国際映画祭に招待されるようになった。 澤登にとって、特に印象深いのは1990年のベルギーのアントワープでの公演だ。 演目は、運命を変えた映画・『瀧の白糸』。 公演が終わっても、お客さんは席を立とうとしなかった。それで、急きょ、客席からの質問に答えることになった。「米国人のコーディネーターが通訳をしてくれました。どうやって台本を作っているのか、入門当時の練習のこと、弁士の仕事で生活できるのかなど―思わぬ質問がどんどんと飛んできて楽しかった。感謝感激。お客さんの中に日本の大学の先生がいて、台本を見せてほしいというリクエストまであった」 客席との楽しいやりとりが終わり、着替えて外に出ると、何人かが出待ちしていた。「11月の寒い夜なのに、私のことを待っていて、また公演を聴きたいと言ってくれたことにすごく感動した。海外公演で、こうした出会いに恵まれたことに心から感謝した」