活動写真弁士・澤登翠 : セリフと情景描写で音のない映画に命を吹き込む
女優への憧れはあきらめたけれど…
活弁が活躍していたのは、澤登が生まれる何十年も前のことだ。澤登は、なぜ時代とともに消えゆこうとしていた活弁の道を進もうと考えたのだろう。 読書好きだった祖父や父親の影響で、子どもの頃から本に囲まれて育った。物語の世界にどっぷりとつかり、いつの間にか、続きのストーリーが頭の中に浮かび、それを友だちに話すのが楽しかった。両親に連れられてよく芝居を見に行っていたこともあり、中・高校時代は演劇部に所属。 映画も大好きだった。十代の頃、フジテレビで『テレビ名画座』の放送が始まり、洋画のとりこになったという。 「1930年代のフランスやイタリア、ドイツ映画のモノクロームの映像にうっとりしていました。外国の暮らしへの憧れや興味もあったし、女優さんの美しさにもひかれました。ミッシェル・モルガンとかマリー・ベルとか美しいでしょう? そういう自分が好きなものがいっぱい中に詰まっている洋画がとにかく大好きだったの」 心のどこかに「女優」に憧れる気持ちがあった。しかし、そんな夢見がちなことを言えば、堅実派の両親が反対するのは目に見えていた。大学卒業後は、出版社で編集補助のアルバイトを始めるが、それは本当にやりたいことではなかった。結局のところ長続きせず、家でくすぶっていた。
師匠・松田春翠との出会い
そんなある日、渋谷の薬学会館で溝口健二監督の無声映画 『瀧の白糸』 の上映会があるという新聞の告知記事が目に留まった。原作は泉鏡花。 「もともと、泉鏡花が好きで、よく読んでいました。原題は『義血侠血』。それが、『瀧の白糸』というまったく別のタイトルで映画化されたのには、いったいどんな意味があり、どんな世界が広がっているのだろうと気になって見に行ったんです」 水芸の芸人・白糸と貧しい士族青年との悲恋物語。白糸は、青年の学費を支援するために、罪まで犯してしまう。 「最後の法廷のシーン。愛する男のために罪を犯した白糸が裁かれる。裁く方の検事として登場するのは、彼女から学費の援助を受け、検事となったあの青年だった。男に尽くし、尽くした男に裁かれるという運命の皮肉。検事を見上げる彼女の目には、死を覚悟した女のすごみがこもっていた」 澤登の心を捉えたのはドラマチックなストーリーや俳優の演技だけではなく、活弁付の無声映画という上演形態だった。それが、澤登が観た初めての無声映画であり、師匠・松田春翠との出会いだった。 「女性と男性の心理表現の巧みさ、せりふとせりふの間の情景の語り、繊細な表現と声の力に圧倒されて、初めて知った活弁の世界にいっきに引きずりこまれた。家で漫然とテレビで見ている時とは全然違って、映像と音楽と語りの3つが混然一体となって心と体に迫ってくる」 その圧倒的なパワーに引き付けられて、押し掛けるように弟子入りを志願したという。 無声映画時代「最後の活弁」と呼ばれる松田春翠が生まれたのは、トーキー映画の始まりとなった『ジャズ・シンガー』が米国で公開される2年前の1925年であった。わずか6歳で活弁としてデビューし、日活のメロドラマの語りを務めた。松田は生涯弁士として活躍し、戦後は日本の無声映画の収集と保存にも尽力。1952年にはマツダ映画社を設立した。現在、澤登をはじめ、何人もの活弁たちがマツダ映画社を拠点に活動している。 澤登は松田の語りだけではなく、彼の人柄にもひかれた。「情に厚い江戸っ子。それが言葉の端々に表れていて、先生が語る時代劇のべらんめえ調はテンポがよくて小気味がいい。音楽性があり、起伏があって流れるがごとくという感じで、聞いていて心地よい語り。その技術を身に着けるまでは長い年月がかかるだろうと思いました」