番組パーソナリティもこなす在阪ラジオPの生き方「コロナの影響はあるけど気づくことも」
「土曜いそべ堂」の上ノ薗公秀さん
番組パーソナリティもこなす在阪ラジオPの生き方「コロナの影響はあるけど気づくことも」
「コロナ禍で予算も以前ほどないなど影響はあるかもしれません。けど、気づくこともあったり、プラスに考えるようにしてます」と語るのは、ABCラジオ(朝日放送ラジオ)プロデューサーの上ノ薗公秀さん。自腹で年間120公演もの若手のお笑いライブに出向き、霜降り明星やミルクボーイの実力を早くから見抜いて「M-1グランプリ」優勝前から冠番組に大抜擢。そのことを爆笑問題の太田光さんが自身のラジオ番組で紹介するなど注目を浴びた上ノ薗さんが、どのような経緯でラジオの仕事を志したのか。 【映像】プロデューサー&番組パーソナリティ2足のわらじで奮闘する上ノ薗公秀さん
当初は芸人志望「ぬかるみの世界」に影響されラジオ局でアルバイト
上ノ薗さんは、大学3回生だった1989年にアルバイトでラジオ大阪のADを担当。最初は公開収録の前に集まった客の前で拍手の練習や番組の説明などを行う「前説」を担当していた。 当時大学では落語研究会(落研)に所属。ラジオ大阪でのアルバイトを申し込んだきっかけは、同局で人気を誇っていた番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」にあこがれた芸人志望の青年だった。 しかし、前説やADのアルバイトをしていくうちに「芸人は無理やな」と思うようになり、ラジオ制作の世界に没頭。大学卒業後は、そのまま在阪のAM・FMラジオ各局を担当する制作会社へと就職した。
自分の希望と違った音楽番組担当も、その経験がプラスに
張り切って入ったラジオ制作現場での仕事。しかし、配属されたのは京都のFM局での音楽番組やAMラジオの音楽ランキング番組、ワイド情報番組などの担当だった。 「落研出身で周りからは演芸などの番組担当が生きると思われてたけど、若いうちは、あえて違うジャンルのものを仕込まれましたねえ」と上ノ薗さん。 しかし、この配属により様々なジャンルの勉強ができ「視野を広く持つことができ、すごくプラスになった。 それと、結果的に10年ほど演芸ジャンルに行かず我慢していたので、後に担当になった時は良い意味で爆発しましたしね」と振り返る。
多大な影響を受けた先輩との出会い、学んだことを礎に
後にフリーランスを経て、2009年にABCのグループ会社に入社した上ノ薗さん。30代半ばには桂米朝さんの「米朝よもやま噺」という番組でディレクターを担当することとなった。そして、その番組のプロデューサーは、M-1グランプリのプロデューサーなどを務めてきた市川寿憲さんだった。 市川さんは元々はテレビのプロデューサーで数々の演芸番組に携わってきた人物だった。上ノ薗さんにとって、この市川さんとの出会いは後の人生に多大な影響を与えることとなる。 「市川さんと出会って若手などの舞台を見に行くことの大切さ。芸人さんとの対し方、番組の持っていき方を本格的に感じたんです」 これらは手取り足取り教わったわけではないが、市川さんの姿をみて、上ノ薗さんは自然とマネをするようになったという。 「いろんな先輩がいました。良い先輩もいれば悪い先輩もいる。人が悪く言ってても自分にとっては良い先輩もいるし。そこから色々なことを学ぶことが、現在の仕事の礎の一つになってますね」と上ノ薗さんは話す。