ヱビスビール、134年のコク 「恵比寿」は商品名が先 ヱビスビール(上)
「コクとうまみ」の本質を追究
夏の暑い日にはビアホールが恋しくなる。このビアホール文化もヱビスビールに始まるという。1899年に日本初のビアホールを現在の銀座に「恵比寿ビヤホール」と銘打って構えた。「東洋のビール王」と呼ばれた馬越恭平社長のアイデアだ。行列が絶えなかったビアホールはヱビスビールの人気も押し上げた。
ヱビスビールのブランドが確立する上で節目となったのは、「1900年のパリ万国博覧会への出品」(沖井氏)だった。ビール製造を始めてからまだ10年だったが、国際的な舞台で金賞を獲得。ビール文化が根付いている欧州で本格的なビールと認められた。1904年のセントルイス万博(米国)でもグランプリを受賞し、そのクオリティーの高さを証明した。 順調に成長したヱビスビールだったが、1930年代以降は戦争が影を落とす。1943年にはビールが配給品となり、「ビールから商標が消えた」(沖井氏)。国内の全ビールはラベルに「麦酒」とだけ印刷され、ヱビスビールの名前も失われた。しかし、戦後は早くから製造を再開。1964年にサッポロビールに社名を変えて今に至る。2年後の1966年には町名としての「恵比寿」が誕生。ビールと街の新たな関係が始まった。 ヱビスビールの名前が復活したのは1971年。約28年の空白を乗り越えて復活し、高度経済成長期に日本で飲み手の裾野を広げていった。宴席で乾杯に使う主役的な立場の酒となり、「とりあえずビール」という言葉に象徴される、最もポピュラーな酒にもなった。 時を隔てて復活したが、創業以来の本格主義はぶれなかった。「コクとうまみの本質的な価値を追求するビール造りは今も変わらない」(沖井氏)。ドイツのバイエルン公国で1516年に定められた「ビール純粋令」では大麦、ホップ、水以外の材料を一切認めていない。ヱビスビールは早くからこのオーソドックスな醸造法を重んじ、麦芽100%のプレミアムビールを目指した。 だから、最もなじみ深いゴールド缶の通常商品では副原料はゼロ。ヱビスビールが「正統派」「本格」と呼ばれ続けるゆえんだ。様々な風味を加えた各種ビールが登場し、純粋令に当てはまらない「第3のビール」が現れた今でもこの原則は揺らいでいない。 ビールが広く親しまれるようになっていくのに伴い、プレミアムビールを求める消費者ニーズも育っていった。「格上銘柄」として認知が進んだヱビスビールは、特別感を望むビール好きの間で確固たるポジションを築くようになる。2003年にサントリービールが「ザ・プレミアム・モルツ」を売り出すまで、国内のプレミアムビール市場はほとんどヱビスビールが握っているような状況だった。しかし、ヱビスビールを取り巻くビール市場が無風だったわけではない。