ネルソン・マンデラがスポーツで成し遂げた団結。南アフリカ、大陸初のワールドカップ開催の背景
独裁政治による衝突、ピッチ外での暴動、宗教テロ、民族対立……。いまなお様々な争いや暴力と常に隣り合わせのなか、それでもアフリカの地でサッカーは愛され続けている。われわれにとって信じがたい非日常がはびこるこの大地で、サッカーが担う重要な役割とは? 本稿では、自身も赤道ギニアの代表選手として活躍し、現在はサッカージャーナリストとして活動する著者が書き上げた書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』の抜粋を通して、アフリカにおいて単なるスポーツの枠に収まらないサッカーの存在意義をひも解く。今回はアフリカ大陸に初めてワールドカップをもたらしたネルソン・マンデラ元大統領と南アフリカの歩みについて。 (文=アルベルト・エジョゴ=ウォノ、訳=江間慎一郎/山路琢也、写真=ロイター/アフロ)
FIFAに対して反乱運動を起こさせるまでに至ったアフリカの主張
1960年代になるとアフリカ各国で次々と独立宣言が発せられ、ヨーロッパの植民者たちは波に抗うことができなかった。1963年には、すでにイギリスから独立していたガーナが、アフリカネーションズカップ(CAN)初優勝。アフリカ主義の父でもある彼らの大統領クワメ・エンクルマは、“ブラック・スターズ”と呼ばれる選手たちの活躍に胸を張るとともに、共通の理想のために団結したアフリカ民族の力を称揚した。 そして、その確信は1966年ワールドカップを前に、国際サッカー連盟(FIFA)に対して反乱運動を起こさせるまでに至っている。アフリカとアジアを合わせて出場枠がたったひとつしか設けられていないのはアフリカ民族への軽蔑であり、もう許すことはできない――エンクルマはアフリカ大陸に、このような考えを植えつけたのだった。 こうしてアフリカの各国代表は、ワールドカップ予選を辞退するボイコットを行った。アフリカ大陸全土が自分たちの権利のために闘った反乱は、あまりにも長い時間が費やされる。彼らは自分たちの代表となる人物がいなかったため、モザンビーク人でありながらポルトガル代表としてプレーし、ポルトガルリーグの得点王、最優秀選手となったエウゼビオを担ぎ上げた。エンクルマの戦略性の高さが見て取れるこの策で、アフリカの団結力はいっそう強まっている。 その一方で南アフリカは、FIFAから国際試合の出場資格を剥奪されたままとなっていた。黒人、白人、混血、インド系民族のいずれかのチームしか出す考えがないことを示唆し、FIFAによって、全人種の平等体制が築かれない限り委員会への参加を禁じられたのだった。 しかし人種隔離政策が、黒人、混血、インド系民族に対する差別が、すでに国の文化として定着していた中、1人の男が同胞たちに正しい未来を与えることを志し始めた。アパルトヘイト撤廃のために闘った活動家、ネルソン・マンデラその人である。