ネルソン・マンデラがスポーツで成し遂げた団結。南アフリカ、大陸初のワールドカップ開催の背景
ネルソン・マンデラの獄中生活を支えた詩
マンデラはヨハネスブルクで法律学を勉強していた時期に反植民地主義の運動に身を投じ、アフリカーナーの計り知れない後押しによって国民党が選挙に勝った際には、彼ら体制にとってあきらめの悪い厄介者となった。南アフリカ国内で経済的にもっとも強大な地域トランスバールでアフリカ民族会議の支部長となり、政治家のキャリアをスタートさせる。その目的は明確そのもので、南アフリカにつくられた人種の壁を取り払うことにあった。 マンデラはこれに並行して、マルクス、毛沢東、エンゲルスの書物を体得しながら、「デファイアンスキャンペーン(不服従運動)」も指揮。ガンジーより受け継いだ非暴力に基づいて、人種隔離政策に対する抵抗運動を展開していった。ただし、この挑戦はとても高くつくことになる。 1964年、マンデラは多くの国民を扇動した重反逆罪で逮捕、投獄された。ロベン島の強制収容所、囚人番号46664として4平方メートルの牢屋に入れられ、岩を砕いて砂利にする作業をしながら18年をそこで過ごすことになる。“マディバ”の愛称で知られる彼はサッカーをこよなく愛し、事実として独房の中庭が見える格子窓から、そのスポーツに興じることを許された囚人たちを見続けていた。彼には、そうできる権利が与えられていなかったのだ。この国でもっとも愛される囚人は1982年にポールスモア刑務所へと移送され、1988年には湿気過多の独房区画で結核の流行が深刻化したために、より快適に過ごせるビクター・フェルスター刑務所へ移された。 自由を奪われたマンデラは、内なる平和に安らぎを見い出している。牢屋の鉄格子はまるでメタファーのように、人種差別によってゆっくりと死へ向かう自由なき国を表していた。しかし、どれだけ長い時間を牢の中で過ごそうとも、彼は憎悪を募らせるどころか、平和的抵抗を続けていく意思を揺るぎないものとしていった。「敵と同じ武器で争ってはいけない」、それがこの囚人の考えだった。 マンデラの獄中生活を支えた詩がある。逆境への抵抗、精神の自由、魂の純潔、真っすぐな振る舞い、どんな悲劇の中にあっても建設的な姿勢を保つことを教えた詩が。彼はウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩句を、何度も、繰り返し暗唱し続けた。 夜が私を覆う 底が知れぬ闇のような漆黒 私の魂が侵されぬことを神に感謝する ぼろぼろの状況にあっても 私はうめきも泣きもしない 悲劇に打ちのめされても 血を流しても 私は決して屈服しない 憤怒と涙の先で 暗闇がその残忍さとともに待ち伏せている だが長きにわたって脅しを受け、また受けても 私に恐れはない どれだけ門が狭くても どれだけの罰を背負っても 私が私の運命の支配者 私こそが私の魂の長なのだ この詩は、人種隔離に対する非暴力・不服従運動のシンボルとなっている。