新潟に残る爪痕 地震と津波と液状化…育った家は「全部撤去」 【能登半島地震】
■車で走り出して数十秒 親戚が「いないって」
東日本大震災では、津波により多くの命が奪われました。今回は、地震の発生直後に津波警報が発表。住民はどう動いたのか。 新潟市に住む和田正紀さん 「海がこれだけ近いので、恐怖がすぐ。ここに波が見えたら終わりだと思ってるんで」 1月1日の午後4時10分―――。和田さんは家族と親戚、合わせて11人で夕食を囲んでいた時、大きな揺れに見舞われました。 津波警報の発表から3分後の午後4時15分、妻・希美子さんは母親と妹、そして2人の子どもを車に乗せて高台へ避難を始めました。一方の正紀さんは、東京から来た親戚が津波に対して危機感がなく、説得に時間がかかっていました。 和田正紀さん 「口調も荒くなって、『早く早く』って感じになりました」 午後4時25分。地震からおよそ15分後に、希美子さんたちは高台へ到着しました。その頃、ようやく、正紀さんたちも家を出発しますが、車が走り出して数十秒後、“あること”に気付きました。 和田正紀さん 「え、お兄ちゃんがいないみたいな感じで気づいて―――」 娘から連絡があり、親戚のひとりが、まだ家にいることがわかったのです。午後4時30分ごろ、自宅に引き返した正紀さん。すでに地震から20分以上が経過していました。その頃、上越市・柏崎市ではすでに津波が観測されていました。 和田正紀さんは、親戚を連れて再び高台を目指しましたが、多くの住民が車で避難をしたため各地で渋滞が発生。「もし波が来たらどうしようっていう不安」のなかで、バックミラーを見ながらの運転。地震発生から、約40分後(午後4時50分)ようやく高台へ到着し、家族と合流することができました。 和田正紀さん 「スピード感を持ってやらないと。とにかく命にかかわるといけないので、その点が反省ですね」 「もし本当に大きいの(津波)が来ていたら…。ぞっとする」 大切な人を守るため、より高い場所に避難することを決めていました。