「浮島丸事件」がミステリー化した元凶、日本政府が「ない」と言い続けた乗船者の名簿が見つかった 79年後に開示された資料が語るもの
行き先は釜山。各種資料からは、治安上、早く朝鮮半島に帰したかった軍部の意向があったことが分かっている。 連合国軍総司令部(GHQ)は日本政府に対し、船舶の航行を禁止する通達を出していた。日本海を南下していた浮島丸は24日、釜山方向ではなく舞鶴港に舵を切る。その日の夕方、舞鶴湾内に入ってすぐ、突然大爆発を起こす。轟音を立てて沈没した。 付近の住民たちは、目の前で巨大な船が沈んでいくのを見て、小舟を出して懸命に乗客たちを救出した。生存者は3千人余りだった。 日本政府は、米軍が敷設した機雷に触れた事故と発表。政府発表では、乗船者は乗客の朝鮮人3735人、乗員255人、死者は乗客524人、乗員25人とした。 ▽浮島丸訴訟 韓国人生存者や遺族は、沈没から47年たった1992年、日本政府に対して真相究明と謝罪、補償を求め、国家賠償請求訴訟を起こした。 京都地裁は2001年、安全配慮義務違反を認め、国に一部賠償を命じる判決を出した。しかし二審で逆転敗訴し、2004年、最高裁で敗訴が確定した。
この訴訟の中で、弁護団が「あるはずだ」と何度も開示を求めたのが、乗船者名簿や、名簿に類する資料だった。原告側の「文書提出命令申立書」に対する政府側の1997年10月6日付の「意見書」には、こうある。 「名簿は、乗船に際して作成された名簿を意味するものと思われるが、厚生省社会・援護局においては、そのような名簿を保管していない。また、右のような名簿の存在はこれまで確認されていないし、存在を明らかにする資料も見当たらない」 死没者名簿は訴訟でも開示されたが、乗船者名簿がないまま死者をどう特定したのか、明確な説明はないままだった。 ▽乗船者名簿 布施祐仁氏は2023年末、厚生労働省に浮島丸関連文書を開示請求した。その結果、いくつかの「名簿」と名の付く文書があることが分かった。 ここから記者は、布施さんと共同で、舞鶴の沈没地点や、訴訟の関係者らを訪ねる取材を開始。開示された名簿や関連資料の分析を進めた。