コロナ危機で離島の焼酎蔵が結束 「東京島酒」を世界へ広げ始めた3代目
大量販売をやめて専門店に営業
焼酎ブームがピークだった2006年、八丈興発の売り上げは過去最高の1億9千万円に達します。全国チェーンのコンビニやディスカウントストアに「情け嶋」を置いたことが推進力になりました。 一方で小宮山さんは、大手チェーンでの流通が、かえってブランド価値を損ねるのではと感じていました。 「街のコンビニで売っている焼酎を、わざわざ八丈島に来て買わなくなるのではという懸念がありました。父は問屋とつながり、大量販売していました。しかし、私は大手酒造が市場を独占し、焼酎ブームが終わる可能性がある以上、このやり方で売り上げを伸ばすのは難しいと思っていました」 小宮山さんはコンビニに卸すのをやめるよう、1年かけて先代を説得し、2007年にはストップすることになりました。 「対面販売を行う地酒専門店に飛び込み営業しました。まずは八丈島に興味を持ってもらえるように努め、東京の離島では1853年から麦麹芋掛け焼酎という独自の文化があることも伝えました」 2007年には、地酒専門店8軒に焼酎を置いてもらえることになり、売り上げの減少幅を縮めました。 焼酎ブームの終息とともに問屋との取引は6件ほど終了しましたが、地酒専門店との取引を年10件ほど増やして黒字を維持。2020年までの売り上げは、1億5千万円~6千万円で推移しました。
父を説得して麦焼酎を製造
焼酎ブーム終息や大手酒造メーカーの販売力に対応するため、小宮山さんは酒類総合研究所での研修中、新しい焼酎の試作に力を入れました。 「芋は秋しか手に入りませんが、通年手に入る麦はトライアンドエラーがしやすいというメリットがありました。研究所で全国の焼酎を飲み比べ、深い味わいで重量感のある個性的な麦焼酎に出会い、自分も造りたいと思いました」 小宮山さんは飲みごたえのある麦焼酎を造るため、父を説得し続けましたが、なかなか首を縦に振らせることはできません。八丈興発は蔵が火事で全焼する前、飲みごたえのある焼酎は売れず、さっぱりして飲みやすい味の焼酎が売り上げを引っ張ったという背景があったのです。 「麦焼酎の大手市場にはこれ以上入り込めず、インパクトのあるものを作らなければ経営が厳しくなることを、毎日先代に伝え続けました」 ようやく許可を得て、2007年に飲みごたえを意識した麦焼酎「麦冠 情け嶋」の発売にこぎつけました。 2008年には自社で栽培した芋で焼酎を造りました。飛び込み営業を続けた結果、高級スーパーの成城石井や有名百貨店などに販路を拡大し、八丈興発の名を広めました。小宮山さんは手掘りによる芋の収穫で2009年に腰痛を発症し、現在は主に千葉県産の芋を使って焼酎を作っています。 父と小宮山さんのやり方は大きく異なっていたため、社員の理解を得るのが大変でした。少しずつ焼酎のブランド価値を高めて、雑誌に取り上げられるように。すると、小宮山さんが目指す方向性が理解され、社員も徐々に協力的になったといいます。 「機械を導入して負担を減らし、長期休暇を取りやすくしたり、残業をなくしたりして、効率的に働ける環境を整えました」