こんな雰囲気で道長の「望月の歌」が詠まれるなんて… 「光る君へ」視聴者の解釈もさまざま
「小右記」に書き残された宴の歌
水野:そもそも「望月の歌」はどんな状況で詠まれたのでしょうか? たらればさん:この歌は道長の孫が後一条天皇として即位し、3人の娘が后となったことを祝う、宴の席で詠まれたとされています。道長の日記『御堂関白記』には内容が記されておらず、藤原実資の『小右記』にだけ書き残されています。 水野:酔っ払って詠んで恥ずかしかったので、自分の日記に書かなかった、みたいな説も読んだことがありますが、もし泥酔したときの歌が誰かに書きとめられて後世に残ってしまったら恥ずかしいですね…! たらればさん:ですよねえ。『小右記』には、「いい月だから和歌を詠みたい」と道長から呼ばれた実資が、返歌を求められて、「こんなすばらしい歌に返せる歌はありません」、「みなさんで殿の歌を唱和しましょう」と返したと記されています。 水野:あのドラマの流れは、基本的には『小右記』の記述に沿っているんですね。なのに歌の解釈がこれまでとがらりと変わって受け取れるのが面白いです。 たらればさん:あの道長の歌は、状況を考えると紙に書いて残されたわけではなく、第三者(実資)が音声で聞き取ったものが日記に書き残されたわけで、つまり実際に道長は「この世」のつもりで詠んだのか、「この夜」だったか、あるいは「子の世」だったかは分かりません。 ちなみにこの頃、道長は(おそらく糖尿病由来の)白内障の症状が深刻に進んでいて(次の日の『小右記』に「道長は、目の前にいる実資の顔もよく見えていない」という記述があります)、この夜の月もほとんど見えていなかっただろう、と言われています。 水野:「子の世」だった可能性も……なるほど……。 たらればさん:この時点での道長の地位は、大変な幸運に恵まれた結果だといえます。 若い頃に父と兄のやり方を学んで、自分には子どもがたくさん、それも息子が6人、娘が6人とバランスよく生まれており、お父さんとお兄さんは比較的早く亡くなりました。 自分を可愛がってくれた姉が天皇の母となり、自分の娘は入内して皇子を産んで、自分はそれなりに長生きしつつ、政敵は次々に失脚したり亡くなったりしています。 そのうえ道長が激しく譲位を迫った三条天皇は、譲位したあと42歳で亡くなっています。つまり「院」として政治に影響を及ぼすこともありません。 父や兄だけでなく、姉(詮子さま)も一条帝(先々代の帝)ももういない。自分(道長)のやることに対して何か言う上の存在は誰もいないということです。摂関政治の頂点を極めたんですね。 水野:それは「自分の世だ~!」と思ってしまっても仕方なさそうですが…。 たらればさん:ただ、この「光る君へ」の世界線では、過去の道長が「女子が帝に入内しても幸せになれない」と言っていましたよね。それが結局、娘を次々に入内させたおかげで孫が帝になった。 だから理屈としては「これで俺は幸せの絶頂に登りつめた」とは描けないよなぁ……とも思いました。 水野:男性が栄華にのぼり詰める裏側には、意に反して入内した姫君の悲しみがあるのだ……ということも伝えたいのかなぁと感じるシーンでした。