中関白家が凋落したからこそ…千年続く〝枕草子のたくらみ〟 権力を失っても輝き続ける「美」
権力を失っても輝き続ける〝美〟
水野:こうして凋落していく中関白家や定子さまたちを間近で見ていた清少納言ですが、輝いていた時を残そうと『枕草子』につづるわけですよね。 たらればさん:そこがまた、『枕草子』ファンであるわたしの胸を千々に乱れさせるんですよね…。 大河ドラマは創作世界を描いているのだから、もういっそ定子さまと一条天皇は手に手を取りあって80歳くらいまで仲睦まじく生きて、天寿をまっとうしてほしい。ききょうもまひろも、その姿をにこにこ微笑みながら眺めてほしい。でもそうはならなかった。そうはならなかったんです。そういうハッピーな世界では、おそらく『枕草子』も『源氏物語』も生まれえなかった。 道長が権力者として恐ろしく優秀であったからこそ中関白家は短期かつ悲劇的なかたちで終わり、その歴史的事実が『枕草子』を成り立たせ、輝かせている要素なわけです。 たらればさん:もうすこし抽象度を上げて説明すると、「光る君へ」の舞台である平安中期は、現代よりもずっと、「美」と「権力」が強く結びついていた時代です。権力があるものは美しいし、美しいものは権力がある、という等式だった。 そうした価値観が一般的だった時代に、『枕草子』は、「かつて権力に結びついて生まれた美は、文明という芽を吹き花を咲かせ、権力を失っても輝き続ける」と主張している、ある種の政治的文明論であるとも言えるわけです。 水野:なるほど…定子さまが権力の表舞台から姿を消しても、美しいものは美しいと…。 たらればさん:そうです。「誰々はいい人だった」とか、勝ち負けだとか、善悪だとかを越えたところに美はあるよね、ということですね。 そのうえで、そういった文明の勃興と衰退の過程で、読み手はどうしても、善とか悪とか、巧とか拙とか、バイアスをかけて読み取りたくなってしまうし、「そういう勝負」に持ち込んだ時点で『枕草子』は一定以上の成功を収めている、という話ですね。 これを平安文学研究者の山本淳子先生は「『枕草子』のたくらみ」と呼んでいて、この「たくらみ」は千年後の現代まで成功しているよなあ……と思っております。 水野:たしかに! たらればさん:それと同時に、現時点(第18回「岐路」終了時)では、父や兄から苦労させられつつも定子さまが政治的な手腕を見事に発揮されていて、賢く健やかに描かれており、その点についてはとても救われていて、心穏やかに見られています。 ファーストサマーウイカ納言さんのご尊顔や姿、立ち居振る舞い、ちょっとした所作や目線も解釈完全一致で、百点満点でいうところの二万点です。