なぜ世間は「ハイデガーといえば『存在と時間』」と思い込んでいるのか
後期の思索を神秘主義的と言う人は理解できないだけ
もちろん『存在と時間』も、決してわかりやすい書物ではない。しかし先ほども述べたように、そこで用いられている言葉は既存の哲学用語の枠内にとどまっている。同時代や過去の哲学者の影響が、なお目に見える形で残されているのである。したがって、そうした影響関係を踏まえれば、何とか読み解けそうな希望も湧いてくる。 それとは対照的に、後期の哲学では、われわれが慣れ親しんでいる哲学用語や哲学史の知識がまったく役に立たない。そこで理解の手がかりを失い、ただただ途方に暮れてしまうばかりとなってしまうのだ。 研究者はハイデガーの後期思想をしばしば秘教的とか神秘主義的と形容する。これは実質的には、後期の哲学は理解できない、お手上げだということを言い換えているにすぎない。 そして彼らは次のように自分に言い聞かせる。後期の思索はどのみちわけがわからないのだから、前期の主著『存在と時間』を取り上げるだけで十分だ、と。 しかし注意しなければならないのは、何度も繰り返すように『存在と時間』は未完の著作であり、刊行された部分だけではその書が本来、目指していた「存在の意味」の解明が果たされていないということだ。 ハイデガーは『存在と時間』の刊行後、まさに同書では論じられないままに終わってしまった「存在の意味」を直接的に示すことを試みた。そしてそれは、既存の哲学の表現様式とは一線を画した仕方で「存在」という事象の固有性を言い表すという形を取った。後期の独特の表現は、こうした努力の帰結なのである。 つまりハイデガー後期の思索においてこそ、『存在と時間』で立てられた「存在への問い」の究極的な答えが示されているのである。したがって、人びとがハイデガーの後期の思想は理解不可能だと言うということは、彼の「存在への問い」が理解できないと認めているに等しいのだ。 そしてこのことは、「存在への問い」こそは『存在と時間』がその解明を目指していたものである以上、『存在と時間』についても本来の趣旨を捉えていないということにほかならない。逆に『存在と時間』の意図を正しく把握できていれば、後期の思索も必ず理解できるはずである。 *
轟 孝夫(防衛大学校教授)