なぜ世間は「ハイデガーといえば『存在と時間』」と思い込んでいるのか
人々が『存在と時間』以降の思索に無関心な理由
以上で見たように、これまでのハイデガー解釈は、彼の思想を『存在と時間』の内容とほぼ同一視したうえで、そこに欠けていると思えるものを他の哲学者の思索で補うのが典型的なやり方であった。しかし先ほど指摘したように、ハイデガーの哲学に足りないとされる要素は、たいてい『存在と時間』後の作品のどこかで論じられているのである。 つまり『存在と時間』を暗黙のうちに基準としている既存のハイデガー解釈は、非常に残念なことだが、こうした彼の思索の拡がりを取り逃がしてしまっている、そう言わざるをえないのだ。 それにしても、なぜ人びとはハイデガーの『存在と時間』以降の思索にこれほどまでに冷淡なのだろうか。 まずは非常に単純な理由だが、後期の作品を読んでも何が言われているのかが、さっぱり理解できないことがある。後期の思索は通常の哲学用語とはまったくかけ離れた言葉で語られているので、とにかく取っつきにくいのだ。 私自身、かつては「存在の真理」、「性起(Ereignis)」、「転回(Kehre)」、「生起(Wesung)」、「拒み(Verweigerung)」、「おのれを隠すことのための明るみ(Lichtung für das Sichverbergen)」、「存在の立ち去り(Seynsverlassenheit)」などの「ハイデガー語」が次々と繰り出される後期の覚書を読んでいると、あまりにもわけがわからず、えも言われぬ焦燥感に襲われることがたびたびだった。しかもドイツ語でも理解しにくいのだから、日本語に翻訳したら、ますます何を言っているのかがわからなくなってしまうのだ。 ハイデガーの専門家でさえ、「ハイデガーの後期をやっても何も出てこない」とか、「ハイデガーの後期思想はまったく無意味だ」と公言する人が少なくないありさまだ。専門家にとって自分の研究対象を理解できないと認めるのは、本来はあまり大きな声では言えないことではないだろうか。ところが不思議なことに、ハイデガーの後期の思索についてはなぜかそうした態度が許容され、それどころかそれが当人の知的良識の誇示という響きさえももつのである。