なぜ世間は「ハイデガーといえば『存在と時間』」と思い込んでいるのか
『存在と時間』だけを読み、あれやこれや批判
このような『存在と時間』への批判は、ハイデガーを早くから受容した日本人のあいだでも見られた。たとえばドイツ留学中に刊行されたばかりの『存在と時間』を読んだ和辻哲郎(1889―1960)は『風土』(1935年刊)の序文で、同書は人間存在の時間性、すなわち個人の意識しか問題にしておらず、空間性(風土性)、ならびにそれに基づいた人間の共同性を取り逃がしているという批判を展開している。 ハイデガーが人間存在を構成する空間性、またそれと密接に結びついた身体性を軽視しているという論難は今日でもしばしば見られるものである。そしてこうした批判の文脈において、モーリス・メルロ=ポンティ(1908―1961)の身体性の現象学や、ハイデガーの教え子だったハンス・ヨナス(1903―1993)の環境倫理学が、ハイデガーが軽視した側面に光を当てたものとして高く評価されることになる。 このように、『存在と時間』だけを読み、そこにあれやこれやの問題に対する目配りが欠けているというのが、ハイデガーの哲学に対するこれまでの批判の典型的なパターンであった。 ところが、彼が取り上げていないとされている主題でも、『存在と時間』においてでさえ、ある一定の考察を見出せることが多い。さらには、『存在と時間』以降のテクストを見れば、彼がそれらの問題を真正面から論じている箇所はいくらでも見つけることができる。 具体例を挙げると、ハイデガーが1930年代後半に展開した西洋形而上学についての批判的考察は、それ自身がナチスの全体主義的体制の本質を捉えようとするものだった。全体主義との対決は、何もアーレントの専売特許ではないのである。 また彼は1920年代から人間存在が風土によって規定されていることを強調しており、むしろそうした点を主題化することこそが「存在への問い」のひとつの眼目でさえあった。このような風土性の考察においては、風土によって規定された身体性も同じく視野に入れられている。またそこでは究極的には、風土性に基づいた根源的な共同性(フォルク)が問題とされているのである。