なぜ世間は「ハイデガーといえば『存在と時間』」と思い込んでいるのか
20世紀を代表する哲学者として、今でも多くの研究書が刊行されているハイデガー。 ハイデガーのもっとも有名な著作といえば『存在と時間』です。日本でも多くの訳書や解説書が刊行されてきました。 【画像】「ハイデガーを読むのはやめなさい!」と日本人に警告した有名哲学者 しかし、『存在と時間』は、本題に入る前に途絶してしまった未完の書です。また、ハイデガーは、『存在と時間』以降も多くの仕事を残しています。 防衛大学校教授の轟孝夫さんは、『存在と時間』だけではハイデガー哲学の核心は到底つかめない、と問題提起します。 【本記事は、轟孝夫『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』を抜粋・編集したものです。】
『存在と時間』偏重問題
『存在と時間』の執筆は、1922年に「アリストテレスの現象学的解釈」という論文の刊行を計画したことに端を発する。この刊行計画が紆余曲折を経て、『存在と時間』という書物の出版につながった(同書執筆の経緯については、拙著『ハイデガー「存在と時間」入門』で詳しく論じたのでそちらを参照してほしい)。同書は刊行後、ただちに大きな反響を呼び起こし、ドイツ国内のみならず国外にもハイデガーの名を轟かせた。 『存在と時間』は今日に至るまでハイデガーの「主著」として、きわめて高い人気を誇っている。しかし同書は主著と見なされているにもかかわらず、じつは未完の著作でしかない。もともと上・下2巻に分けて刊行されるはずであったが、下巻は刊行されなかったのである。その結果、『存在と時間』がその目標として掲げていた「存在の意味」の解明も実際には果たされないままに終わっている。上巻でそのための準備作業を終え、ようやく本題に入ろうかというところで途絶しているのだ。
全集の8割以上が『存在と時間』以降の仕事
よく考えてみれば奇妙だが、『存在と時間』はこのように本来の目標に到達できていないにもかかわらず、完結した作品のように崇め奉られているのである。多くの人が上巻だけを読んで満足し、下巻が刊行されていないことは意識しない。そもそも同書が未完であることを、だれも問題視しないのだ。 それどころか、この不完全な『存在と時間』を主著と見なし、ハイデガーの思想の核心がそこに示されていると捉えている。同書の内容さえ押さえれば、彼の思想全般が理解できたことになる、そう考えているのである。 それゆえ、ハイデガー哲学に関する研究書や一般向けの解説書は『存在と時間』に大きな紙幅を割いている。その後の思索を取り上げる場合も、どちらかというと付け足しの印象を免れない。 端的に言って、比較的よく知られた戦後の技術論などは別として、ハイデガーの『存在と時間』以降の思索に光を当てた入門書や解説書はきわめて少ない。人びとの関心は圧倒的に『存在と時間』を中心とする彼の前期思想に向けられてきたのである。 言うまでもないことだが、ハイデガー自身は『存在と時間』を世に出してからも、1976年5月に逝去するまで、たゆまぬ思索の歩みを続けていた。ハイデガー存命中の1974年に開始された全集の刊行が進んだ結果、今日では予定された全102巻のうちのほぼすべてがすでに刊行されているが、そのうちの8割以上が『存在と時間』以降の仕事である。にもかかわらず、人びとは『存在と時間』の内容を知ることだけで満足して、その後の思索の展開にはあまり興味を示さないのだ。 そして研究者でさえも、ハイデガーの思想を『存在と時間』の内容に限定し、それ以外の業績を視野から外している人は少なくない。そしてそうした研究者が今度は、彼の思想にはあれやこれやの哲学的問題に対する目配りが欠けていると非難しだす。 たとえばハイデガーは『存在と時間』で、他者関係や公共性を現存在の非本来性と結びつける一方、本来性における現存在の単独性を強調しているから、彼の哲学は真の他者性や人間の条件としての「複数性」を度外視しているという批判がなされたりする。 こうした批判においては、ハイデガー哲学の「欠落」を補うものとして、カール・レーヴィットやハンナ・アーレント、エマニュエル・レヴィナス(1906―1995)など、ハイデガーに教えを受け、そこから独自の思索を展開した哲学者の業績が参照されるのが常である。そもそもここに名前を挙げた哲学者自身が、自分の思索によってハイデガー哲学の欠落部分を補うという自負をもっていた。