「13年たっても頭を離れない」体育館をひつぎが埋め尽くす異様 遺体安置所で納棺し続けた「5代目」、芽生えた使命感 #知り続ける
増え続ける遺体
山田町は最大19メートルの津波が記録され、大規模な火災も発生した。町総務課によると、人口の4.3%に当たる825人が死亡や行方不明。震災当日の深夜には遺体安置所を町立の体育館に開設したが、数日後にはもう2カ所増やしている。 「火葬が追い付かず、増えるばかりのご遺体の保管は、地震の発生からしばらくは大きな課題だった」(町担当者)。そのさなかに海保さんは到着した。 遺体安置所は異様な光景となっていた。木棺が所狭しと並び、「身元不明」と手書きの紙が張られたものもある。遺体を包む「納体袋」が足りず、代わりに毛布でくるまれただけの状態も多い。スペースが十分確保できないため、通路やボイラー室にも棺が並べられている。 そんな場所でも「自らも被災者であるはずの役場職員や警察や消防の人たちが、一生懸命に活動していた」。
絶望の底で見た希望
海保さんもすぐ取りかかったが、対応すべき遺体があまりに多い。連日、30~40の遺体が運び込まれてくる。腐敗を防ぐため暖房は使えない。雪が舞う日もあり、ダウンコートを着込んでいても底冷えがした。犠牲になった一人一人の「旅支度」に向き合える時間は限 られている。顔に付いた砂や泥を布巾で落としてあげるのが精いっぱいだった。 「生きている人より故人さまと過ごす時間の方が長く、職業柄、慣れているはずの自分でも次第に心がすり減っていった」 遺体安置所は、地元の人が親族らの身元確認に訪れる。顔見知りが多いせいか、同じ目的でやってきた知人同士が偶然出会うこともあった。 「良かった」「生きていたのか」 無事を喜び合う姿を見て、絶望の底にいても希望が見つかることを知った。
「申し訳なさと、ほっとした気持ちと」
余震は頻繁にあった。夜は車で寝泊まりし、風呂にも入っていない。食事は被災者の物資を奪ってしまわないよう、持参したレトルト品で済ませる。休憩していると、地元の人が「体を温めて」と炊き出しの食事を差し出してくれた。ぬくもりに触れ、心身の疲れが和らい だ。 1週間後、帰る予定日を迎えた時は複雑な気持ちになった。 「現地に残る人たちへの申し訳なさと、やっと日常に戻れるというほっとした気持ちの両方がないまぜだった」