「13年たっても頭を離れない」体育館をひつぎが埋め尽くす異様 遺体安置所で納棺し続けた「5代目」、芽生えた使命感 #知り続ける
2011年3月下旬、岩手県山田町のある体育館で、海保太亮さん(50)は1人の遺体に向き合っていた。海保さんは千葉県佐倉市の葬儀会社社長。ボランティアで納棺するため、東日本大震災の被災地に来ていた。この亡きがらも犠牲者だ。喉の奥まで砂にまみれている。 津波にのまれ、息をしようと必死にもがいて泥水を飲み込んだのだと想像がついた。 「苦しかっただろう」 口の中まできちんと清めてあげたいが、そのゆとりがない。遺体安置所となったこの場所には、震災発生から2週間余りがたったこの日も、新たな遺体が次々と運び込まれてくる。 いつも地元の佐倉でやっているような丁寧な納棺をしたいが、急がないとほかの遺体の腐敗が進んでしまう。 あれから13年近くたったが、当時の光景が頭を離れない。「十分に弔ってやれなかった」という悔恨とともに、今もはっきり思い出す。(共同通信=永井なずな)
地震の直後「声がかかるかもしれない」
佐倉市の「松井葬儀社」は明治時代に創業。海保さんは5代目として生まれ、幼い時から親を手伝ってきた。2011年3月11日午後は東京にいて、大きな地震に襲われた。周囲の高層ビルがぐらぐら揺れている。 交通機関がストップした混乱の中、一緒にいた同業者たちとなんとかホテルの一室を確保。みんなで一つのテレビを囲み、ニュースを見続けるうちにこう思った。 「声がかかるかもしれないな」 海保さんの会社が加盟する全日本葬祭業協同組合連合会(全葬連)は、災害や大事故の際に遺体の収容を支援する協定を、各地の自治体と結んでいる。 地元に帰った翌日ごろから全葬連の担当部署とやりとりを始め、「いつでも出られる」と伝えた。ただ、行き先が確定しない。被災地が広範囲にわたる上、東京電力福島第1原発事故の影響もあったとみられる。正式に「岩手県山田町へ向かってほしい」と要請を受けたのは18日だった。 急いで荷造りし、仕事も引き継いだ。自家用車に仕事道具を詰め込んで23日に出発。同業者も乗り込んだ。現地に着いたのは25日朝だった。