「オンナ寅さん北京をゆく!? 新境地の魅力」綿矢りさ×藤井省三『パッキパキ北京』対談
二〇二二年の冬から二三年の春にかけての数ケ月、北京に滞在した綿矢りささんの実体験から生まれた小説『パッキパキ北京』には中国の“今”が詰まっている。主人公は、コロナの時期に北京に単身赴任しいろいろ弱っている夫に乞われて渡航した菖蒲(アヤメ)。実際の作者自身よりも、菖蒲はコロナが明けてからの北京を大胆に自在に闊歩する……。 対談のお相手は雑誌掲載時からこの小説に興味を持っていたという、日本を代表する中国文学者・藤井省三さん。綿矢さんの思いもかけない中国との縁や中国文化とのつながりを文芸評論家として紐解いてゆく。 【関連書籍】『パッキパキ北京』 構成/長瀬海 撮影/中野義樹
『蹴りたい背中』からの因縁
綿矢 私が中国に関心を持ったのは割と最近で、三十代の半ばを過ぎてからでした。その頃は中国語に簡体字と繁体字の違いがあることもわかっていなかったんですが、慣れ親しんできた日本の漢字とは形や意味が少しずつ違う簡体字の魅力に惹かれて勉強をするようになったんです。当時はちょうど中国語で書かれたネット小説が日本でも読めるようになり始めた時期で、私もファンの方が翻訳してくださる小説を読むようになり、中国の文化に親しみ始めました。小説だけじゃなくて映画もたくさん観たのですが、なかでも大好きなのが『さらば、わが愛/覇王別姫』です。つい最近も4Kのリマスター版が都内で再上映されたので観に行き、パンフレットを購入したところ、そこに藤井先生の文章が収録されていました。それが中国の歴史を踏まえた解説になっていて、すごくわかりやすくて驚きました。私も昨年の冬から今年の春にかけて実際に北京で暮らし、そのときの体験に基づいた小説を書いたばかりなので、今日はいろいろと教えていただきたいと思います。 藤井 綿矢さんがそこまで中国に関心を持って、中国語の勉強までなさり、小説もお読みになっていたと伺って驚きました。恥ずかしいことに、私は綿矢さんの小説は二十年前に『蹴りたい背中』を読んだきりでした。当時のことを思い返すと、不思議に思ったことが二つあったのを覚えています。一つが小説の主要人物である男子高校生にな川くんの「にな」の漢字です。作中では「にな」は難しい字ということもあって、ずっと平仮名で呼ばれていますよね。漢字を当てると「蜷」なわけでして、虫編に巻く、と書きます。まるで玉虫がくるっと回るような巻いて曲がるイメージで、にな川くんという人物の性格にぴったりでした。漢字からそんなことを連想させる名前の付け方が上手だなぁと思いました。 もう一つは、にな川くんが追いかけているモデルのオリチャンについてです。チャンっていうのは人の名前に親しみを込めてつける接尾語の「ちゃん」ではないのですね。物語の後半、主人公のハツはにな川くんとオリチャンのライブに行くことになるのですが、その場面で「Oli-Chang First Live Tour.」と書かれたチケットが出てくる。Changを中国語のピンイン表記として読みますと「張」の字となりまして中国語圏にルーツを持つ人物が想像されます。また、オリチャンは「ハーフみたいな顔立ち」とハツに表現され、「鼻がツンと高くて彫りの深い顔立ちなのに、目だけが日本人の一重目蓋だったその顔」と描写されてもいる。これだけだと日本人と欧米人の混血のように見えるのですが、Changという名前が中華圏のものだと考えると、もう少し複雑な背景が浮かび上がります。もしかしたら、にな川くんの「にな」が漢字を隠して平仮名になっているのとオリチャンの「チャン」が漢字を連想させるChangになっているのは対句的な発想に基づいているのかな、と思ったりもしました。名前の漢字を巧みに使って小説を組み立てる面白い作者だなぁと当時、感じたのを覚えています。 綿矢 そうですね。確かに、にな川の方は漢字の意味合いを残しながら「にな」の響きを大切にするために平仮名に開きました。その方が私の描きたかった男の子の姿に近づくかなと考えたんです。でもオリチャンに関しては、先生がおっしゃってくださったことはほとんど意識していませんでした。にな川がハマってるのが典型的な可愛いアイドルではなく、おしゃれで外国の雰囲気を身にまとっている人にしたいと思っていました。容姿もアジア人だけど日本人よりはちょっと背が高い人をイメージしてたぐらいで、中華系の人物を想像して書いたわけではありませんでした。なんでこんな設定にしたんだろうって今では思います。当時は中国語も全く勉強していなかったし、日本以外の国にもあまり詳しくなかったですし。 藤井 もしかすると何かの因縁かもしれませんね。その二十年後に『パッキパキ北京』で中国について書くわけですから。 綿矢 そうですよね。あの頃から無意識のうちに中華系の人に惹かれていたのかもしれません。 藤井 名前に注目して『蹴りたい背中』と『パッキパキ北京』を比べて読むのも面白かったです。『パッキパキ北京』はコロナ禍の北京にヒロインの菖蒲さんが移り住み、冒険をする物語です。菖蒲は「アヤメ」とルビが振られていますが、漢字だけ見て私が思い浮かべたのは漢方薬のショウブの根でした。乾燥させると胃薬になることでも知られている薬草です。菖蒲さんは美味しい中国料理が大好きな人物なので、きっと胃も疲れるだろうから、胃を回復させる意味を込めて菖蒲なのかな、と。あるいは、菖蒲さんのお連れ合いが駐在員として先に北京に渡っているわけですが、コロナ禍の北京の環境に馴染めず、ノイローゼ気味になっている。そんな彼を癒す薬という意味もあるのかな、とも思いました。 綿矢 名前を決めるときに中国でも日本でも同じ意味を持つ漢字を使おうと考えたんです。菖蒲は日本語ではアヤメ、中国語ではチャンプーと読みますが、どちらも花を指しますよね。響きもなんだかかわいいし、中国人のお友達ができたときにチャンプーって呼ばれるくだりを書き込もうかなと思ったのですが、結局、そのタイミングがうまく摑めず、書けませんでした。漢方薬のことは知りませんでしたが、確かにそう考えるとぴったりですね。 藤井 菖蒲さんは大変活発で、とても知的な人ですので、そういうヒロインにふさわしい名前だと感じています。