「オンナ寅さん北京をゆく!? 新境地の魅力」綿矢りさ×藤井省三『パッキパキ北京』対談
小説から読み解く現代の中国文化
綿矢 北京の街は驚くことばかりでした。街の巨大な建造物のスケールや華々しさはもちろん、住宅街の人の多さやエネルギーにも圧倒されっぱなしでした。たとえば交通に関しては、もう異次元で(笑)。藤井先生も『現代中国文化探検――四つの都市の物語』のまえがきで「ただし車にはくれぐれも気を付けて」と書かれていましたが、スクーターのような電動自転車がすごい勢いで走っていて何度も轢かれそうになりました。ああいった交通事情は中国全体のものなのですか? 藤井 ええ、そもそも中国にはガソリンで走るオートバイを騒音や公害問題のために禁止している都市が多いんですね。そのために電気自転車は二十一世紀になると爆発的に普及しました。『パッキパキ北京』のなかでも菖蒲さんのお連れ合いが的確に説明しているように、電気自転車は免許も要らず、自転車感覚で走れるので誰でも比較的自由に乗れる。だから車を買うほどのお金がない人でも気軽に所有しているわけです。 もともと中国では九〇年代半ばまで、車に乗ることは改革・開放政策による成り上がり資本家や高級官僚の特権でした。中国には指導層優遇の伝統があるためでしょうか、交差点で青信号を歩行者が渡っていても、日本では赤信号で停止するはずの車が停止することなく右折できます。ですから、歩行者が車を心配せずに安全に横断歩道を渡ることが難しいのです。そういう意味では元々車優先社会だったところに、九〇年代末に起こったモータリゼーションのおかげで中産階級の人たちも車を持てるようになった。それに続けて中産階級より下の人たちが、電気自転車に乗り始めました。小説のなかでも菖蒲さんが信号待ちをしているときに、スクーターおじさんが滔々たる車の流れに怒りを爆発させて赤信号を進み、青信号待ちの歩行者にみんな渡れと指示する姿を目撃したと書かれていましたね。あれは車を所有する中産階級以上の人間に対する、庶民たちの怒りなんだと思います。 綿矢 へえー‼ 車へのライバル意識があるなんて全く知りませんでした。あの場面はそういう意味があったのか(笑)。 藤井 日本ですと、車を買うときに車庫証明が必要かと思いますが、中国では車庫証明なしで車をどんどん売ってしまう。その結果、みんな歩道に乗り上げて違法駐車してしまうので、今では歩道を駐車場に転用して料金をとっています。違法駐車よりはいいのでしょうけど、歩道を歩けなくなった歩行者が車道を歩いているのです。 綿矢 そうですよね。大渋滞が起こってると思ったら全部路上の駐車場だったみたいな光景も見かけました。 藤井 あと、歩行者が邪魔だと電気自転車はすぐクラクションをブーブー鳴らすでしょう。コロナ前に私が住んでいた南京でもマンションの前が狭い路地で、隣が幼稚園だったのですが、この路地を電気自転車がバイパス代わりに通行してクラクションを鳴らし続けるものですから、その騒音たるやなかなかのものでした。 綿矢 私、あれが一番驚いたかもしれません。北京にずっと住みたいと思うけど、あの光景が日常になるのは厳しいですね。中国の人ほど反射神経が鍛えられていないから。 藤井 中国人は逃げるよりも慣れろ、と度胸を据えております。しつこくクラクションを鳴らされようとも動じることなく、悠然と歩いていますね。 綿矢 堂々としてるんですよ。小走りとかしないんです、しっかり前を向いて。あれを身につけるまで住めそうにないですね。 藤井 そういうなかで菖蒲さんが勇敢に街を歩いているのはご立派です。怒られてもへこたれないですし。お連れ合いも驚いていましたね、「君は本当にポジティブだな。海外暮らしが向いてるタイプ」だって。 綿矢 めげないのはすごいですよね。私は道路交通事情が怖すぎて、今日はあまりコンディションが良くないなって日には家から出るのにとても勇気が要りました……。