「お父さん、私は死ぬとね?」喉が焼けそうな熱さ 79 年前の空襲、火の海を必死で逃げた13歳 #戦争の記憶
突然の機銃掃射「敵機はわざと見逃した?」
家を失った喜重子さんの家族は、親戚宅に身を寄せました。そして8月10日には2回目の熊本大空襲がありました。1回目は深夜の焼夷弾攻撃でしたが、2回目は午前中で機銃掃射と爆撃が混ざったものでした。 その日、喜重子さんは、歳が近い従姉同士3人で久しぶりに白米のおにぎりを作っていました。前日、長崎に大型爆弾(原子爆弾)が落とされたという恐ろしいニュースが喜重子さんたちの耳にも入っていました。しかし喜重子さんは「長崎の翌日に、すぐ近くの熊本への攻撃はないのではないか」と自分を安心させるように考えをめぐらしたそうです。 しかし突然、喜重子さんの耳に機銃掃射の音が響きました。3人は作りかけのおにぎりを投げ捨てて、近くの防空壕に逃げようとしました。 「防空壕めがけて走った時に、間に合わずに敵の飛行機がやってきたんです。バババババと落とし始めたときに、敵機の中の兵隊さんと目があったんです。そして、私は助かった」 機銃掃射から逃れた喜重子さんは、当初はただ「運よく助かった」と安堵するだけでした。しかし今思えば、「その兵隊さんは私を逃してくれたんじゃないか」と思うようになりました。 「至近距離で目が合ってるんですから。直撃しようと思えば何のことはないですよ。今になって思うと、その兵隊さんは敵国の少女を救ってくれたな。こういうことを考えると本当に戦争というものは人と人の間では絶対に起こったらいけない問題だったんですよ」 7月1日と8月10日の2回にわたる熊本大空襲では、熊本市街地の3分の1が焦土と化しました。犠牲者は469人とされていますが、民間人の犠牲者は当時詳しく把握されておらず約600人とする説もあります。
8月15日 少女の胸を満たした「終戦」 の喜び
「8月15日も暑い夏の日でした。玉音放送で天皇陛下は何て言われるんだろうか?みんな玉砕しろと言われるんじゃないかなと半分恐怖だった」 しかし放送が終戦を伝えるものだと分かったとき、喜重子さんの心は喜びに変わりました。 「もう敵の飛行機は来ない。もう空襲警報も警戒警報もない。もう平和になる。電灯もつけられる。おいしいものも少しは食べられるかもしれない。私の胸は感謝と喜びでいっぱいでした」