「お父さん、私は死ぬとね?」喉が焼けそうな熱さ 79 年前の空襲、火の海を必死で逃げた13歳 #戦争の記憶
「何色と言いますか。空が真っ赤というかオレンジ色というか。今度は白い煙がブワーッと防空壕の中に入ってきて、途端に息ができんようになったわけですよ。そしたら私が一番に叫びました。『お父さん、このまま私たちは死ぬとね?もう死んでしまうとね?この中で』」
しかし父親は「防空壕を出るぞ!」と叫んだというのです。近くにあった丹前(注:綿が入った防寒用の和服)を頭からかぶり防空壕を出ると、炎と熱風、煙が一家を襲います。 「火の粉がボンボン飛んできた。空はもう真っ赤になって、煙で息はできない。火の渦の中に入ったものですから、丹前の上の方に火がついたのだろうと思う。頭がもう熱くカッカッカとなった。それで私はもう息ができなくて苦しくて『もう私はここで死ぬな』と思った時に防火用水が目についた」 一家を救ったのは、緑色をした汚い防火用水だったといいます。 「目を凝らしてよく見ると、青苔がドロドロした動きが見えてボウフラがいっぱい泳いでいましたが、ためらう暇はありませんでした。ザブンと丹前をつけてから、水を浴びるぐらい飲んだと思うのですよ。乾くどころじゃないですよ、焼ける。いや喉が焼けるというよりか息ができない。もう命の水でしたね。もしあの水がなかったら、もう私は息が切れておったなと…」 その後、なんとか医院の敷地を脱出した家族は、1キロほど離れた陸軍の訓練施設に逃げこみました。
一面の焼け野原に呆然 昨日まで遊んでいた友の死
家族は、夜明けまで練兵場に掘られた塹壕の中で過ごしました。一夜明け、我が家に戻ろうとしましたが、周囲は一面の焼け野原となっていました。 楽しかった思い出の自宅の遊具も残っていません。喜重子さんは、前日までここで一緒に遊んでいた友人が空襲で亡くなったことを知りました。 「仲のいい友達が一瞬にして亡くなっているんですよ。前の日、庭の遊具で遊んで『さよなら、バイバイ』で帰って行き、一家全滅。お父さんだけが生き残ったそうです。今でもお父さんが泣きながら防空壕の中で遺体を焼いていらっしゃった光景が忘れられません」 しかし喜重子さんには悲しみの感情は湧いてこなかったといいます。 「人間の感覚はまひ状態になる。怖さや恐ろしさはあっても、悲しくて悲しくてじゃなくて、周りの人が皆、夢遊病者みたいだった。悲しいよりも、助かった、救われたと考えていた」 当時、全国で16番目の人口を有する熊本市を標的とした熊本大空襲は7月1日深夜から2日未明まで100分間続きました。この夜の空襲で市街地の約20%が焼失したといわれます。