「お父さん、私は死ぬとね?」喉が焼けそうな熱さ 79 年前の空襲、火の海を必死で逃げた13歳 #戦争の記憶
世界の平和を願う今 熊本大空襲「記憶の継承」
喜重子さんは7月1日に熊本市で開かれた「熊本空襲を語り継ぐ集い」で自らの体験を証言しました。喜重子さんの記憶と事実関係をつなぎ合わせながら空襲写真をカラー化する取り組みも行われています。
喜重子さんは、今も世界各地で続く戦争で犠牲になる子どもたちを見るたびに、あの日の自分を重ね合わせます。終戦を迎えたときの安堵感。その喜びをあの子どもたちが感じられる日は来るのだろうかと、複雑な胸の内を語りました。 「当時の私たちが体験した、いわゆる命をかけて生きてきたということと同じだなと思いますね。なんでみんなは戦争を通り越して平和を望んでいるのかな。それは筋道が違うじゃないのと。戦争で平和が来るはずはありませんと声を大にして言いたい」
取材を終えて
少女は、2度の大空襲で死の恐怖を嫌というほど味わい、玉音放送を聞いて初めて、自分が戦争を忌み、平和を望んでいたことに気づかされた―。今回、喜重子さんの話をうかがいながら、私は、30年ほど前に死去した我が父のことを思い出していた。亡父は1933年生まれだったので、喜重子さんの2歳下だが、「戦時下の少年時代、将校を目指していた」と、私に話したことがあった。亡父は貧しい農家の二男坊で、分け与えられる田畑も望めないことから「自分は軍人として身を立てるしかない」と考えていたそうだ。幼い心に、戦地に赴くことは、ごく自然なこととして刷り込まれていたのだろう。しかし戦争が終わったことで、亡父は軍人になることなく、教員の道を歩んだ。そして私には、死ぬまで頑固に平和を希求する父の言葉が耳に残っている。喜重子さんも、平和な時代が続いてほしいという願いから、自らの戦争体験を語り続けている。世界中の誰にも自分と同じ苦しみを味わってほしくないのだ。もしみなさんの周りに戦争のことを語ってくれる人がいるのならば、どうか耳を傾けてほしい。今回、戦争体験を語れる人を探す過程で、過去取材した多くの方が亡くなっていることに改めて気づかされた。報道機関として、戦争体験を語り継ぐ責務を負っていると思うが、それは年々難しくなってきている。 ※この記事は熊本県民テレビとYahoo!ニュースの共同連携企画です
取材:KKT熊本県民テレビ・後藤宏一郎/取材協力:平和憲法を活かす熊本県民の会 髙谷和生代表幹事